日々のつぶやき

2008-07-30

YMO楽曲大賞78/07

YMO楽曲大賞78/07参加のためのエントリーです。
http://www.k2.dion.ne.jp/~prse/ymoma/

●楽曲部門

1.体操 - TAISO(3点)
坂本の持ち込んだ現代音楽要素と、細野・高橋のリズム体のファンクネスが「反復」を共通項に合体した、3人の共同作業としてのYMOの完成形。シリアスを冗談ではぐらかす80年代サブカル的なセンスに痺れた。

2.シムーン - SIMOON(2.5点)
架空のハリウッド・ノスタルジーをヴァーチャルに再構成した、細野晴臣のソロ活動の延長上にある傑作。以後この路線がYMOでは廃れたという意味でも特別な楽曲。細野とキッド・クレオールの相似性を強く感じさせる。

3.マルティプライズ - MULTIPLIES(2点)
高橋幸宏のドラミングで一番好きなのが、こうしたスカ〜レゲエ的なリズム解釈。今聴くとスペシャルズまんまだが、そのネタ消費の速度感も魅力。イントロの引用だけで作曲者印税をもぎ取ったバーンスタインの剛腕にも唸る。

4.邂逅 - KAI-KOH(1.5点)
このあたりの楽曲の魅力は、実はHMO(初音ミクオーケストラ)で再認識したりした。坂本龍一の詞・曲・ヴォーカルの全てがナイーヴな魅力を放つ。


5.リンボー - LIMBO(1点)
YMOの歴史はミュンヘン・ディスコに始まりブラック・コンテンポラリーで終わる。結局黒人音楽好きなプレイヤー集団としての魅力が露になった1曲。細野晴臣が生ベースを弾く曲に外れなし。


●ライヴ楽曲部門

1.音楽の計画 - MUSIC PLANS [1981/12/22-24 新宿コマ劇場](3点)
強力なリズム体に支えられてアグレッシヴに暴れまくる坂本の存在感。ここがYMOのピークだ。

2.東風 - TONG POO [1979/10/16 The Venue (London)](2.5点)
『パブリック・プレッシャー』のバージョンから。渡辺香津美のギターがカットされたおかげで細野晴臣の動きまくるベースラインを堪能できる。

3.ジ・エンド・オブ・エイジア - THE END OF ASIA [1980/12/21 日本武道館](2点)
ノイジーなシンセドラム、大村憲司による鋭角的なギターのカッティングが刺激的。東風もそうだがこのライヴではリズムのレゲエ的な解釈が印象的だった。

4.ライオット・イン・ラゴス - RIOT IN LAGOS [1980/12/21 日本武道館](1.5点)
2度目の世界ツアーでYMOのオルタナ化を牽引したのは、この坂本ソロ曲のインパクトによるものが大きかったのではなかろうか。映像では、直立不動でシンセベースのシーケンスを弾く細野のストイックな存在感が物凄い。

5.中国女 - LA FEMME CHINOISE [1983/12/12-13 日本武道館](1点)
シンセの音色もメロディアスなベースも、高橋幸宏のヴォーカルも全てがセンチメンタルで、ニューロマンティックなYMOもまた良し。これで終わりなんだ、という感慨が深い。

番外.
ワイルド・アンビションズ - WILD AMBITIONS [1983/07/25 フジテレビ『夜のヒットスタジオ』第766回]
ノミネートのリストにないので外したが、これを3位にしたかった。全期を通じて唯一の細野・坂本2人による共作曲。テープ録音だろうトラックに、細野のウッドベース、坂本のピアノ、高橋のドラムが生で重ねられる。演奏のテンション、タキシード姿の佇まい、「Let It Be」の引用など、YMOの「終わり」を暗示させる。


●アルバム部門

1.テクノデリック - TECHNODELIC(3点)
今でも一番聴き返すアルバムだから。サンプリングの導入によるインダストリアルな感触、不穏な人間関係の緊張感、現代音楽とファンクとケチャがせめぎ合う反復の魔力、ベーシストとしての細野晴臣のリミッター解除など、全てが最高傑作に貢献している。

2.増殖 - X∞MULTIPLIES(2点)
当時、流行ものとしてのYMOを避けていた私が初めて引っ掛かったのがこのアルバム。ニューウェーヴとスカの疾走感、人を馬鹿にするにも程があるスネークマンショーのギャグ、Tighten Upの超絶カバーなど聴き所多し。

3.サーヴィス - SERVICE(1点)
もともとジョルジオ・モロダーのミュンヘン・ディスコにフュージョンのセッションという、ニューウェーヴとは程遠い出自を持つYMOの、ある意味原点回帰ともいうべきブラコン・アルバムにして最終作。SETのギャグは箸休め程度だが曲は粒揃い。坂本曲「Perspective」を聴くと、細野曲「ノルマンディア」の盗作疑惑の際の坂本の言いざまを思い出し今だに腹立たしい(笑)。

●推しメン部門
細野晴臣
そりゃもう。

2008-07-03

おまわりさんに捧げる唄

昼日中に近所を自転車でうろついていて、久しぶりに職務質問を受けた。それなりの数の人々の注目を浴びて逆上してしまう。といっても警官に暴力を振るうわけでも、逃走を図ったわけでもない。せいぜい登録証の照合に「早くして!」と苛立ちを隠さず声を上げたり、終いに「お仕事ご苦労様です」と嫌みがましくも高らかに言ってみたりしただけだ。一刻も早くこの場を離れたいと自転車を走らせながらも、胸の不快なざわめきが抑えられない。

職質がきっかけで抵抗が生じ、結果的になにがしかの「犯人」が生まれる。「疚しいことがないならなぜ逃げた、抵抗した」というが、疚しいことがないからこそ全力で逃げもし、抵抗もするのだ。
職質は間違いなく人を傷つける。よりにもよって人通りの中で、しかも普段の生活の場で、自分が社会にとってイレギュラーな黒い羊であると決めつけられる、いや見抜かれる屈辱。不特定多数の人間の中から自分を選び出した警官の炯眼。いやまったくあなたは正しい。だがその正しさは自分の尊厳を賭けて否定したい。私を呼び止め、人前で不審人物と認定する権利があなたにあるのかと、言葉にする前に体が反応し、自分が本来立ち会う必然性のない状況から離れようとすることの、どこに非があるのか。理不尽に矜持が傷つけられたという屈辱感は、暴力衝動をかき立てるのに充分だ。
このとき自らもまた警官にとって恐怖の他者であり、職質はその恐怖を乗り越えて社会への脅威を未然に取り除き市民を守ろうとする勇気ある行動なのだという、警官側の立場に向かう想像力は、自分がいま不当に社会から排除されようとしているという衝撃の前に軽く奪われてしまう。実際職質を受けている間、私は警官に対する憤りのほかに何も思うことができなかった。暴力行為に及ばなかったのは理性というよりも、単に身体反応の鈍さの賜物かもしれない。

とはいうものの、自転車を走らせながら、このことを日記に書きつけようと頭の中で言葉を組み立てるうちに怒りは鎮まり、妙に多い警官の自転車とすれ違うころには、もう何人か声かけてきてくれないかな、同一人物への一日の職質数の記録作りたいな、そのたびに丁寧に答えてやろう、などと薄ら笑いで考えていたのだった。こうして書きながらも、あのときに感じた屈辱や怒りは、確かにそれを感じたという事実として覚えているものの、もう再現するのが難しくなっている。

職務質問によって犯罪者になってしまった人々と私の間に大きな違いはない。今頃彼らは、もはや怒りを失った自分を留置所に茫然と見出し、私は眠れない夜に駄文を弄している。それでも私は、あのとき警官に対して確かに凶暴な思いを抱いたのだ。

……まあ、最近職質受けてなかったからなあ。職質慣れするとへらへら受け流して済むんだけどね。不審人物としての自覚が足りなかったよ。反省反省。

2008-07-01

『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』

シルベスター・スタローンがインタビューで「『ランボー4』を撮ったのは『ランボー3』の出来に不満が残っていたから」といった発言をしていたが、この『インディ4』の製作動機も同じような部分があるのではないか。というのも、ショーン・コネリー演じるインディの父親が登場する『インディ3』の収まりの悪さ(相対的な出来の悪さ)を「父性をめぐる物語」としての4部作の中に回収するために、一種の大団円としての4作目が用意されたのではないかと思うからだ。……というのは穿った見方にしても、「父性」「家族」のオブセッションは『宇宙戦争』よりはよほど幸福な形で昇華されている。いっそ『若き日のジョーンズシニア』『ジョーンズジュニアの冒険』を加えてジョジョ化するという展開もあるだろう(ねえよ)。

それにしてもいい湯加減の映画だ。もともとインディ・ジョーンズのシリーズがオールドファッションな冒険活劇を目指して作られたものであり、その意味では80年代当時にあってさえ「古臭い」と言われておかしくはなかった。その古臭い物語に、当時の最新の特撮技術と、スピルバーグの作風でもある暴力と悪趣味、馬鹿馬鹿しいアトラクションとをてんこ盛りにした「過剰さ」が、このシリーズを特別なものにしていたように思う。古い器に新しい酒を注ぐのではなく、古い酒を新しい器に注いだのが『インディ・ジョーンズ』だった。だが、この『クリスタル・スカルの王国』にはかつての「過剰さ」は感じられない。『シンドラーのリスト』以降、暴力と死への志向をエクストリームなまでに強めてきた近年のスピルバーグにとって、むしろ『インディ4』はかなり抑制を効かせた作りになっている。その結果『インディ4』は普通に「古臭い」映画になってしまった。

もっともその古さも含めてシリーズのファンなら許せてしまうものかもしれない。立ち読みした『ユリイカ』スピルバーグ特集号の蓮實重彦・黒沢清対談では黒沢が「面白かったけど、こんなんでいいのか?という感を拭えない。スタッフも『こんなんでいいんだ』と自分に言い聞かせながら作ったのではないか」(うろ覚え)と言ってたが、まったく私も「こんなんでいいのか? いいんだよな。まあいいか(笑)」という境地で楽しんだ。『スター・ウォーズ』新作が悪の今日性を盛り込もうとしてうまくいかなかったのに比べるといっそ潔い。悪いソ連! 怖いドジン!(なぜか変換できない!) 放射能は洗えば大丈夫! ネタがあからさまにトンデモなのも一部の人に強く訴求しそうだ(個人的にはちょっと抵抗があるが)。

ただ、全体に黄昏感というか、「その後のインディ・ジョーンズ」的な物寂しさは感じる。赤狩りとロックンロールと核の恐怖に縁取られた50年代を生きるインディは、異なる時代に迷い込んだ孤独なタイム・トラベラーのようだ。

ところで、先の『ユリイカ』対談で蓮實重彦は「スピルバーグが私の生徒だったらもっと面白い映画を撮れていただろう」みたいなことを言っている。映画史へのオマージュとしてネタが浅い、ということだろうが、別にそんな「シネフィルにだけ通じる符牒」みたいな映画を期待してもしょうがないんじゃないか。スピルバーグはタランティーノとは違うでしょう(とはいえ蓮實的な「正しい映画史」「正しい映画」は「圧力」としてあっていいものだと思う)。