食べやすい大きさに切った鶏肉に、塩・黒胡椒で下味を付け、オリーブ油で炒め、焼き目が付いたら油を切って取り出す。
たっぷりの湯と塩でパスタを茹でる。
鶏を焼いた油の残るフライパンにニンニクみじん切り、裂いたぶなしめじ、食べやすい大きさに切ったチンゲンサイを順次投入、鶏肉を戻し中華ガラスープと日本酒を加える。
茹で上がる前のパスタを適量の茹で汁とともに加え、汁がなくなったら完成。
湿気に耐えて作った甲斐あって、塩気も茹で加減も丁度良い。冷奴とペットボトルの茶を添えて食う。
日々のつぶやき
2009-06-22
夕食:鶏とチンゲンサイのパスタ
つぃったららー
「Twitterで書けばいいようなことを、あえてブログで書く」という方針で長年暇つぶし日記サイトを運営してきた私だが、突然「Twitterで書けばいいようなことは、Twitterで書けばいいじゃない」というひとつの気づきを得て(←ライフハックふう)Twitterを今ごろ始めてみました。ていうかミクシィエコーで充分だったんだけど、サービスがどんどんいらない子扱いになってきたので乗り換えた次第。おかげで順調にブログの更新が滞ってますが、ヘッダの下の3行ほどを読めば生存が確認されると思います。3行以上読みたい人は「follow me on Twitter」をクリックしてください。followしなくても大丈夫よ! べっ別にアンタに以下略。それはそうとfollowの数が3桁くらいになると、情報の奔流が緑の文字列となって滝のように網膜上を流れると聞くが(新しい表現!)、今のところ井戸に小石を投げ込んでは水音を聞くような感じで、知り合いからfollowされたら返すという状態。まあしばらく様子見で。アルファついったらーへの道は果てしなく遠いが、弥勒菩薩が降臨するまでにはなんとかしたいものだ。
で、日常の些事はTwitterで、長文のオピニオンはブログで、という使い分けにはなりようもなく。とりあえずこれから夕飯作るのが面倒。部屋干しの湿気が私を打ちのめすー。
2009-06-13
購入メモ(5月後半〜6月前半)
漫画
カラスヤサトシ『カラスヤサトシ』4巻(講談社)
袴田めら『わたしの大切なともだち』1巻(双葉社)
おがきちか『Landreaall』14巻(一迅社)
小石川ふに『ゆるユルにゃー!!』2巻(徳間書店)
岩本ナオ『町でうわさの天狗の子』4巻(小学館)
あずまきよひこ『あずまんが大王』1年生(小学館)
岩岡ヒサエ『ゆめの底』(宙出版)※ブックオフにて350円
CD
あがた森魚『少年歳時記』(08年)
ブックオフにて1550円。これまでで一番高い買い物かも。
2009-06-12
喪の仕事
ロッキングオン流の、というより渋谷陽一流のインタビューが昔から嫌いだった。インタビュアーの中であらかじめミュージシャン像を用意して、そこに向かってインタビューイを追いつめていくようなやり口や、対象との距離を限りなく近づけようとするような馴れ馴れしさが苦手だった。音楽の来歴そのものよりも、ミュージシャンの下世話なライフストーリーばかりを追及する歪んだ「作家主義」では、アイドルを捏造することはできても、決して音楽そのものには近づけないだろうと思っていたのだ。
ところが『ROCKIN'ON JAPAN 特別号 忌野清志郎1951-2009 』を読んで、少し考えが変わった。忌野清志郎への追悼として、過去のロングインタビューに加え、清志郎の死を受けての仲井戸麗一(!)と坂本龍一への特別インタビューを併載したその本からは、ラジオで聞きなれた渋谷陽一の早口で甲高く軽薄な喋り声とともに、含羞と韜晦と偽悪が交錯した、忌野清志郎のしゃがれ声がはっきりと再生されたからだ。
どんなにレトリックを駆使しても、決して誌面から音楽が聞こえることはない。わかる人には参照可能なインデックスとなるバンド名の羅列も、そこに至る以前に教養主義の壁となって立ちはだかる。だいたい作品自体は語られようが無視されようが残り続けるが、作者はいつか存在そのものが消滅してしまうのだ。それならば、音楽を文字情報で記録しようとする徒労よりは、生きた人間の言葉をライフログとして残そうとすることのほうが、雑誌にできる役割として理に叶っているといえないだろうか。渋谷陽一と彼の雑誌は、清志郎の生前からこの時のために、その墓碑銘=エピタフを刻み続けてきたのだ。混沌こそ我が墓碑銘。21st Century Schizoid Magazineというかつての二つ名は伊達ではなかったのだ。渋谷陽一さん、あなたは正しかった。
考えてみるとロック雑誌、あるいはロック評論そのものが、死にゆくジャンルのための墓碑銘あるいは遺言を刻むためにあるのかもしれない。差し詰め『THE DIG』は墓荒しか。
閑話休題。ここに収められたインタビューでは、渋谷が前もって描いていたイメージと(そうでなければプロのインタビュアーではない)、そこに寄り添うようで柳のようにすり抜ける、清志郎の適当な強靱さが拮抗して、スリリングな読み物が楽しめる。R&B系の評論家なら、もっと「音楽的」なインタビューにもなったかもしれないが、そこからはこの「ヒューマン・ストーリー」の面白さは生まれないだろう。今、チャボのインタビューを取れる編集者が(これまでの関係性を築くうえでも貢献した図々しさも含め)渋谷陽一以外にいるだろうか。それだけでもこの本は貴重である。もっともこの「ヒューマン・ストーリー」の強度は、時に音楽そのものに向かおうとする心を縛りつけてしまいかねない。だからそろそろこの本を閉じて、RCサクセションのレコードに針を落とそう。
2009-06-09
帰ってきました。
6日の夕方の飛行機で。羽田に着いた途端に湿った空気がまとわりつく。人波をかきわけ、母親への理不尽な悪口をまくし立てる若い女の会話に気を取られて、乗り換え駅の渋谷を乗り過ごし、吉祥寺駅のホームでは頭のおかしな男が怒声を上げていた。ここが東京だと実感する。
回転寿司で夕食を済ませ、果てしなくバスを待ち続け、家に着いたのは21時。函館での18時に夕食、20時に入浴、22時には就寝という生活時間を早くも逸脱しつつあり。それでもこの日は23時に就寝。せっかくだからこの習慣を維持したいものだ。
翌7日。5時半に起床、シャワーを浴び、洗濯をし、食料を仕入れ、ネットを逍遥するうちに昼。ヤマザキのコッペパンとモンテールのシュークリームで昼食とし、刺身タンポポのせ作業を突貫で終わらせ、吉祥寺での待ち合わせに急ぐ。それにしても人大杉。北朝鮮よミサイルはどうした。などと心中で毒づきつつ無事に知人と会合、久々にオタ話に花を咲かせ。別れて渋谷に向かい、これも久々にカラオケ。アニソンとプログレ担当として、クリムゾン「21世紀の精神異常者」、四人囃子「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」を間奏まで歌うという謎の新機軸を披露、呆れられる。散々飲み絶叫して帰宅。翌朝声が嗄れていた。
と、こんな感じで東京生活に復帰。正直、実家での平穏かつ規則正しい日々の繰り返しに慣れすぎて、本当に東京に戻れるのだろうかと思い始めていたが、まあなんとかなるものだ。渋谷にも吉祥寺にもミサイルが落ちなくて良かった、と思い直す程度には、それなりに居場所もあるらしい。
写真は、1日に母の要望で出かけた、五稜郭公園の藤棚。
2009-05-28
錆びてないナイフ
ひとの並べた刺身を並べ替えてタンポポをのせ直す過酷な作業が一段落。その作業の合間に3度の食事を作り、早朝セールに出かけ、庭いじりを手伝うという日々がここしばらく続いていた。観光客のふりの市内巡りも、食べ歩きもまったくしていない。唯一の外食的なものは、近所の生協で売ってる3割引のパック寿司くらいのものだ。しかし、この一人前400円足らずの寿司が馬鹿にできないのだから恐るべし。函館よ、私にお前の本気の寿司力を見せてくれ!金はないけど!
駅前のデパート「棒二森屋」の改装前食品セールに父と出かける。同業老舗の丸井今井の経営危機が伝えられた昨今、この棒二デパートも親会社の意向で撤退するというニュースが流れ市民をやきもきさせたが、どうやら誤報であったらしくひと安心。それはそれとして、朝10時の開店前からかなりの数が列を作り、売り場が開くや人が殺到、1つ198円の雪印バターは瞬く間に売り切れた。だがしかし、そのバターを2箱、北海道のブランド米「おぼろづき」5kg1480円を2袋確保。海岸通りを自転車を連ねて帰路に。パチンコ屋と車屋と回転寿司が作る櫛の歯の間に、凪いだ海がストロボのように現れる。
まあ外出しなくても、庭に出るだけでそれなりに満足。ドアを開けると花の香りが漂う。とりわけコリンゴのそれが強い。
今はツツジが満開を迎え、そろそろ盛りを過ぎるあたり。
わが家の庭もこうしてみると野趣に富んでいるか。
トマトの苗の植え付けをしていたら、土を掘る父のシャベルがカチリと音を立てて、ずいぶん前になくしたバターナイフが発掘された。生ゴミに紛れて一緒に埋めてしまったらしい。ステンレスだから錆びてない。
2009-05-18
似てるようで似ていない
所用で外に出たついでに新雑誌『ゲッサン』(小学館)を立ち読み。とりあえず『あずまんが大王』新作だけ読んだのだが面白い。連載が終わらず今も続いていればこのような形になっていたのだろうか、本質はそのままに表現が洗練されていた。『よつばと!』休載もこの際我慢しよう。
ところで、『BSマンガ夜話』の『よつばと!』回で、いしかわじゅんが「『あずまんが大王』はよくある萌え4コマ(という表現はしていないが)から一歩も出ていず面白くない。『よつばと!』はそこから踏み出したことがエライ」という主旨の発言をしていて、他の出演者も特に反論しなかったと記憶している。
「萌え4コマ」というジャンルの嚆矢のひとつともいえる『あずまんが大王』に「萌え4コマだから悪い」と言わんばかりの評価はどうかと思うが、ある年代以上の読み手にとって「どれもこれも似たようなもの」に見えてしまうのは仕方ないことだろう。だが、『まんがタイムきらら』を1冊買って隅々まで読めば、それぞれの作品に(薄くとも)作者なりの個性があり、作品ごとに主観的な優劣を付けることもできるのがわかるはずだ。
同じ4コマフォーマット、同じような絵柄、同じようなキャラクター配置でありながら、それなりの個性を持った表現が生まれる。これは、同じようなメロディ、同じようなコード進行、同じようなリフを持つ、いくつもの名曲を送りだしてきたロックの歴史に通じるものがある。だが、ストーンズとザ・フーの区別のつかない人は、現実に山ほどいるだろう。様式性と抽象度が高くなるほど聴き分けは難しくなる。テクノやヒップホップならなおさらだ。
このように、ジャンル特性に則った表現の差異を味わい分けるには、受け手にリテラシーが要求される。それを持たなくてもまったく問題はないが、門外漢の自覚があるならば、己の目や耳の絶対性を疑ってみる謙虚さがあっていい。いしかわじゅんは「萌えリテラシー」を持たない人だろうが、それとは別に、様式より前衛を好む美意識の偏りもあるのではないか。例えば、中期ビートルズの果敢な前衛性を称揚するために、ロックンロールとR&Bの様式への愛を率直に表明した初期ビートルズの音楽を軽視してみせる態度にそれは似ている。一愛好家なら(もったいないと思うけど)それもいいが、批評として機能する言説なら問題がある。
私は『よつばと!』好きだけど、『あずまんが大王』もやっぱり好きだ。大阪!