シルベスター・スタローンがインタビューで「『ランボー4』を撮ったのは『ランボー3』の出来に不満が残っていたから」といった発言をしていたが、この『インディ4』の製作動機も同じような部分があるのではないか。というのも、ショーン・コネリー演じるインディの父親が登場する『インディ3』の収まりの悪さ(相対的な出来の悪さ)を「父性をめぐる物語」としての4部作の中に回収するために、一種の大団円としての4作目が用意されたのではないかと思うからだ。……というのは穿った見方にしても、「父性」「家族」のオブセッションは『宇宙戦争』よりはよほど幸福な形で昇華されている。いっそ『若き日のジョーンズシニア』『ジョーンズジュニアの冒険』を加えてジョジョ化するという展開もあるだろう(ねえよ)。
それにしてもいい湯加減の映画だ。もともとインディ・ジョーンズのシリーズがオールドファッションな冒険活劇を目指して作られたものであり、その意味では80年代当時にあってさえ「古臭い」と言われておかしくはなかった。その古臭い物語に、当時の最新の特撮技術と、スピルバーグの作風でもある暴力と悪趣味、馬鹿馬鹿しいアトラクションとをてんこ盛りにした「過剰さ」が、このシリーズを特別なものにしていたように思う。古い器に新しい酒を注ぐのではなく、古い酒を新しい器に注いだのが『インディ・ジョーンズ』だった。だが、この『クリスタル・スカルの王国』にはかつての「過剰さ」は感じられない。『シンドラーのリスト』以降、暴力と死への志向をエクストリームなまでに強めてきた近年のスピルバーグにとって、むしろ『インディ4』はかなり抑制を効かせた作りになっている。その結果『インディ4』は普通に「古臭い」映画になってしまった。
もっともその古さも含めてシリーズのファンなら許せてしまうものかもしれない。立ち読みした『ユリイカ』スピルバーグ特集号の蓮實重彦・黒沢清対談では黒沢が「面白かったけど、こんなんでいいのか?という感を拭えない。スタッフも『こんなんでいいんだ』と自分に言い聞かせながら作ったのではないか」(うろ覚え)と言ってたが、まったく私も「こんなんでいいのか? いいんだよな。まあいいか(笑)」という境地で楽しんだ。『スター・ウォーズ』新作が悪の今日性を盛り込もうとしてうまくいかなかったのに比べるといっそ潔い。悪いソ連! 怖いドジン!(なぜか変換できない!) 放射能は洗えば大丈夫! ネタがあからさまにトンデモなのも一部の人に強く訴求しそうだ(個人的にはちょっと抵抗があるが)。
ただ、全体に黄昏感というか、「その後のインディ・ジョーンズ」的な物寂しさは感じる。赤狩りとロックンロールと核の恐怖に縁取られた50年代を生きるインディは、異なる時代に迷い込んだ孤独なタイム・トラベラーのようだ。
ところで、先の『ユリイカ』対談で蓮實重彦は「スピルバーグが私の生徒だったらもっと面白い映画を撮れていただろう」みたいなことを言っている。映画史へのオマージュとしてネタが浅い、ということだろうが、別にそんな「シネフィルにだけ通じる符牒」みたいな映画を期待してもしょうがないんじゃないか。スピルバーグはタランティーノとは違うでしょう(とはいえ蓮實的な「正しい映画史」「正しい映画」は「圧力」としてあっていいものだと思う)。
日々のつぶやき
2008-07-01
『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』
ラベル:
映画
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