日々のつぶやき

2008-06-25

気がつくとあのヒトのことばかり

実家に帰省していて、たまたま『新・科捜研の女』という警察もののドラマを観た。
乳母車の連続爆破事件が発生する。赤ん坊が降りたのを見計らって爆発させているらしいのだが、近くに犯人の姿は見当たらない。で、科捜研の女こと沢口靖子が、例によって科学の力で犯人を追いつめていくのだが、その犯人の姿というのがもう何とも(思いっきりネタバレですが、読み終えた5分後に記憶が失われますので大丈夫)。
犯人は有名大学工学部の大学院まで卒業したものの無職の若い男で、保険もないため満足に歯の治療も受けられない。そんな自分には決して持ちえない幸せな家族の姿を見ると、虫歯と心の痛みが疼くのだという。それで他人の幸福を破壊しようというわけだ。
これを観て「なんて陳腐な社会派ドラマなんだ」と呆れた。しかも理系・若い男・独身・無職などへのステロタイプな偏見を、格差問題の告発という美名の裏で無意識に視聴者に植え付けているのが始末に悪い。ほら見ろ、うちの母親が犯人に息子の姿を重ねて涙目だぞ。どうしてくれる(私が涙目)。

ところが、程なくして本当にそんな「陳腐な社会派ドラマ」紛いの事件が起きてしまった。別にこれは『新・科捜研の女』が事件を予見したわけでもなければ、事件の側がフィクションを模倣したものでもないだろう(あたりまえだ)。単にドラマの製作者も加藤容疑者も、同時代のステロタイプな偏見・固定観念を共有していたに過ぎない。過ぎないのだが、ドラマの作者は時代のテンプレートに沿って陳腐なフィクションを生み、加藤は同じテンプレを真に受け、テンプレ通りの人間像に相応しい行動を取った。繰り返すが、これはフィクションへの批判ではない。フィクションと現実をともに汚染するステロタイプに突っ込みを入れる他者(他者性)を、内にも外にも加藤が持っていなかったことが問題なのだ。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という、いわゆる「なぜころ問題」にいまさら回答するなら、「協業が成立しないから」と答える。いつ自分を殺すか知れない相手と、同一の空間にいることはできない。そうなると生産も交換も流通も知識の伝達も不可能となり、文明が成立しない。「人を殺してはいけない」というのは、文明の基盤としての協業を可能にするための最低限の了解事項なのだ。
だとすれば、自分が協業の中に存在していない、協業の恩恵を受けていない(としか思えなくなっている)人間にとって、「人を殺してはいけない」というルールは自明のものではなくなる。殺す相手が「誰でもよかった」というのは、もはや憎しみの対象としての特定の他者すら存在せず、といって権力や資本家というふうに敵を図式化することもできない。彼を協業の輪から排除した「世間」全体が敵であればこそ、殺すのは(彼以外の)「世間」を構成する「誰でもよかった」のだろう。
逆にいえば、孤独な無差別殺人者を生まないためには「ひとを協業から疎外しない、疎外されていると思わせない」ことが社会にとって重要になる。そりゃそうなんだが。ファミレスで平日昼間にカラスヤサトシ『カラスヤサトシ』(講談社)を読んで笑っている私にどうこうできるはずもない。
ふと思う。おそらく単行本が出た今でも年収が250万に届かないであろう(そうであってほしい)しみったれた30男が、独り安アパートで「九死に一生」を得て自暴自棄から免れる。そんな姿も笑いの中に描いたカラスヤサトシの漫画を読んでいたら、加藤容疑者は救われていたのだろうか。「カラスヤはクリエーター様、同じ不細工でも俺とは違う」とか言うだろうか。