日々のつぶやき

2009-06-12

喪の仕事

ロッキングオン流の、というより渋谷陽一流のインタビューが昔から嫌いだった。インタビュアーの中であらかじめミュージシャン像を用意して、そこに向かってインタビューイを追いつめていくようなやり口や、対象との距離を限りなく近づけようとするような馴れ馴れしさが苦手だった。音楽の来歴そのものよりも、ミュージシャンの下世話なライフストーリーばかりを追及する歪んだ「作家主義」では、アイドルを捏造することはできても、決して音楽そのものには近づけないだろうと思っていたのだ。

ところが『ROCKIN'ON JAPAN 特別号 忌野清志郎1951-2009 』を読んで、少し考えが変わった。忌野清志郎への追悼として、過去のロングインタビューに加え、清志郎の死を受けての仲井戸麗一(!)と坂本龍一への特別インタビューを併載したその本からは、ラジオで聞きなれた渋谷陽一の早口で甲高く軽薄な喋り声とともに、含羞と韜晦と偽悪が交錯した、忌野清志郎のしゃがれ声がはっきりと再生されたからだ。

どんなにレトリックを駆使しても、決して誌面から音楽が聞こえることはない。わかる人には参照可能なインデックスとなるバンド名の羅列も、そこに至る以前に教養主義の壁となって立ちはだかる。だいたい作品自体は語られようが無視されようが残り続けるが、作者はいつか存在そのものが消滅してしまうのだ。それならば、音楽を文字情報で記録しようとする徒労よりは、生きた人間の言葉をライフログとして残そうとすることのほうが、雑誌にできる役割として理に叶っているといえないだろうか。渋谷陽一と彼の雑誌は、清志郎の生前からこの時のために、その墓碑銘=エピタフを刻み続けてきたのだ。混沌こそ我が墓碑銘。21st Century Schizoid Magazineというかつての二つ名は伊達ではなかったのだ。渋谷陽一さん、あなたは正しかった。

考えてみるとロック雑誌、あるいはロック評論そのものが、死にゆくジャンルのための墓碑銘あるいは遺言を刻むためにあるのかもしれない。差し詰め『THE DIG』は墓荒しか。

閑話休題。ここに収められたインタビューでは、渋谷が前もって描いていたイメージと(そうでなければプロのインタビュアーではない)、そこに寄り添うようで柳のようにすり抜ける、清志郎の適当な強靱さが拮抗して、スリリングな読み物が楽しめる。R&B系の評論家なら、もっと「音楽的」なインタビューにもなったかもしれないが、そこからはこの「ヒューマン・ストーリー」の面白さは生まれないだろう。今、チャボのインタビューを取れる編集者が(これまでの関係性を築くうえでも貢献した図々しさも含め)渋谷陽一以外にいるだろうか。それだけでもこの本は貴重である。もっともこの「ヒューマン・ストーリー」の強度は、時に音楽そのものに向かおうとする心を縛りつけてしまいかねない。だからそろそろこの本を閉じて、RCサクセションのレコードに針を落とそう。