日々のつぶやき

2008-08-04

ポーニョポーニョポニョ

『崖の上のポニョ』を観た。1度目は公開2日目にTジョイ大泉のレイトショー1200円で。2度目も同劇場で、映画の日に千円で。自転車で行ける距離にあるDLPシアター、しかもアクセスが微妙に悪いのでそれほど混まないだろうという目論見、案の定入りはどちらの回も7〜8割程度だった。

すでに多くの感想がネットで読めるが、その大部分は賛否どちらにせよ、竹熊健太郎氏と町山智浩氏による評価に概ね沿っているように思える。

竹熊評価 http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_fb6c.html
町山評価 http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080727

なので、私も両氏の論点を参照しつつ、まとまらない感想を並べてみたい。

町山氏が「子を持つ親として『崖の上のポニョ』で許せないこと」として挙げている突っ込みは(「子を持つ親として」という前提の気持ち悪さはともかく)いちいちもっともだ。ただし「自分たちの名前を息子に呼び捨てにさせている過剰に民主主義的な両親」というのはちょっと違うんじゃないか。いや、確かに違和感はバリバリなのだが、それは「過剰に民主主義的」だからではない。思うに、名前呼び捨ては宮崎駿なりの「ヤンキー性」の表現なのではないか。
これまでの宮崎アニメの家族像なら、父親は海洋学者で母親は大学の同級生、研究のために都会から海辺の町に転居、自然に囲まれた生活を満喫している、といった都会のインテリ層を両親に設定しているところだろう。ところが宗介の母親のリサの場合は作中の描写から想像するに、地元のヤンキー商業高校出身で卒業後に介護士の資格を取得、同級生とできちゃった結婚で宗介を生む、というあたりの背景が思い浮かぶ。車で乱暴にワインディングロードを攻め、息子に気を取られて脇見運転し、買い物は郊外のショッピングモール、子供の食事はインスタント、幼い息子の前で夫と争いヤケ酒を喰らい不貞寝する。良妻賢母ではない、母親である前に不完全な女であるリサ。こういう人物像は、郊外や地方のシネコンに車でやって来る若い家族連れの層に、かなり重なるのではないか。別に宮崎駿にそういう山っ気があったとは思わないが、左翼インテリが発想するリベラルな家族像というよりは、ファスト風土に住まうヤンママ一家と見たほうがしっくり来る。少なくともそういう現代性を映画に持ち込もうとしたことは確かだろう。そのリアリティが映画の内容と整合するかはさておき。

一方で町山氏のほかの指摘は非常に妥当なのだが、魚に水道水は禁物だの、雨天の高速運転はハイドロプレーニング現象がどうのといった常識は、宮崎駿だってさすがに知らないはずはない。知っていてそれをあえて無視するのは(映像的な快感を優先したこともあろうが)『ポニョ』をリアル志向のアニメではなく「漫画映画」として作るという意志の表れだろう。しかし、最大の問題はここにある。なぜなら『ポニョ』は漫画映画ではないからだ。
『ラピュタ』や『トトロ』や『紅の豚』が、『長靴をはいた猫』や『パンダコパンダ』や『どうぶつ宝島』にはなれなかった時点で、宮崎はもはや漫画映画を作れないことを自覚していたはずだ。背景画の線を歪ませパステル調に仕立て、自然のエフェクトを手描きの(色トレスではない)実線で描いてみたところで、キャラクターの影を省いたところで、宮崎アニメの表現はそれでも「リアル」過ぎるのだ。そもそも、車種まで特定できそうな軽自動車の助手席にチャイルドシートが据えられているような世界で「漫画映画」を実現するのは不可能だ。にもかかわらず『ポニョ』でもう一度漫画映画を夢見たことが、宮崎の老いだと言っては残酷だろうか。ちなみに一枚絵の書き込みの量を増やすことと、線を簡略化して膨大な枚数を費やすことは、垂直と水平の方向性が異なるだけで「老境のマニエリスム」に違いはないだろう。『コナン』や『ルパン』の3コマ作画の動きの切れが懐かしい。

この「漫画映画の力」への過信は竹熊氏の言う「『この世』と『あの世』の境界が最初から最後まで判然としない」ことの原因だったりもする。特に後半以後にそれは顕著になる。
ポニョ来襲によって水没した町を覆う海の色は、それまでの濃い青やどす黒い津波の色ではない、蛍光グリーンの不思議な色になる。『どうぶつ宝島』で生まれ、『雨降りサーカス』で再登場した、あの懐かしいバスクリンの海だ。溺れても誰も死なない「漫画映画の海」は、しかし直前まで荒れ狂っていた群青の海とは明らかに違う。明らかにリアリティの水準が異なる表現が唐突に接続されることによって、「洪水だけど誰も死んでません」という漫画映画の規範を示すはずの明るい海の色は、それまでの「映画内リアル」に対する「異界(あの世)の標識」として機能してしまう。ドラマ性とは全く関係のない若夫婦との会話や、船で避難する町の人々の暢気さ、子供の夢を具現化したような玩具の船、遊泳する古代魚などなどの描写が「漫画映画のおおらかさ」ではなく、死後の世界の表象、醒めない悪夢のように見えてしまうのは、あの非現実の海の色によるところが大きいのではないか。

ポニョの波乗りを最大のスペクタクルにして、以後全くクライマックスのない展開も、「いつ終わるんだこれ」という観客の意識とも相俟って、また醒めない夢のような不思議な感触に繋がっていく。ただし、これが竹熊氏の言うような、子供映画のふりをした作家の映画なのかといったら、そうではないだろう。
シナリオなしにコンテから筆を起こし、出来上がったところから作画を開始、全体像は(宮崎駿を含め)誰も把握できないまま製作が進み、事実上駄目出しする時間がないまま完成してしまう。製作側は宮崎駿を信じてゴーサインを出すしかない。このジブリ流製作システムでは、スタッフも宮崎のイメージボードの段階からつき合い、コンテを小出しに見せられ、レクチャーを聴き打ち合わせをし……という形で「宮崎駿の思考の流れと自らをシンクロさせる」ことが作業の上で第一になるだろう。つまり、スタッフ全員が宮崎の脳内に住んでいるようなものだから、外部から突っ込みを入れられるはずがない。こういう宮崎アニメの作り方のでたらめさが、たまたま夢の論理のでたらめさと合致したのが近年の宮崎アニメであり、とりわけ『ポニョ』の場合は「アニメ映画」と「漫画映画」のリアリティ水準が混在しているために、シュールさがより激しく強調される結果になったのではないだろうか。

では通常の映画ならどのような見せ場が考えられるだろうか。ここで恥知らずにも2次創作的に「ぼくのかんがえたポニョ後半部」を書いてみよう。


リサが老人ホームへ去った翌朝、船出するポニョと宗介。
若夫婦とのやりとりは省略し、手を振ってすれ違う程度に止める。
避難民の描写も省略(後述)。
暢気な航海の後、発見したリサカー。しかしリサは不在。泣く宗介。
ポニョ、眠い眼を見開き、「宗介、リサんとこ行こう!」と言い放つ。
インスマス面(半魚人モード)で念じるポニョ。
丘の貯水曹がひび割れ、巨大な水が山肌を落ちてくる。水の塊は魚の形になり、ポニョが宗介を魚の上に乗せる。ポニョは魚と一体化。
ポニョ「宗介、走って!」
水の魚にしがみついていた宗介、おっかなびっくり立ち上がり、走り出す。水色の魚が、群青の海の上を泳ぐ。ポニョの妹たちも巨大な水の魚となり、後を追う。町から水が見る見る引いていく。それを高台から息を飲み見守る避難民たち(ここで登場。無事であることを示すため)。
クミコ「あれ、宗ちゃんだ!」と指を差す先には、水色の魚に率いられた巨大波の魚群が沖に向かう姿。

魚の中で泳ぐポニョ、しかし眠たげに眼を閉じようとする。途端に勢いを失う魚。水が張力を失い、沈みかける宗介。
宗介「ポニョ!」必死に走る宗介。眼を開くポニョ。形と勢いを取り戻す魚。
ポニョ「見つけた!」
海中へと潜っていくポニョと宗介。

フジモトのサンゴ塔の中では、好き勝手なことを言う年寄りとリサを相手にフジモトが困り果てている(後半、唐突に「もののわかった母」になるリサに違和感があるため。年寄りたちは皆立ち上がっているが、そのことを自覚していない)。そこに登場するグランマンマーレ。その威容に思わず打たれ静まる一同。

深海へと向かうポニョと宗介。気泡に包まれながら、疲れつつも走りをやめない宗介。しかしポニョが力を失い、人型から半魚人へ、そして魚に戻ってしまう。水色の魚は崩れて周りの濃い色の海に溶けていく。
「ポニョー!」叫ぶ宗介。だが宗介の周りの気泡も砕け、水圧に潰されようとするそのとき。グランマンマーレの光り輝く巨大な手がポニョと宗介を包む。意識を失う宗介。

宗介目覚める。心配そうに見守るリサの顔、老人たち。
宗介を抱きしめるリサ。宗介「ポニョは?」
水球の中で死んだように動かないポニョ魚。号泣する宗介。
フジモト「ポニョの魔法を使い果たさせるには、こうするしかなかった。許してくれ」フジモトの方法で世界は救われたが、ポニョは失われた。
グランマンマーレ「今度は私のやり方を試す番ね」
グランマンマーレ「宗介さん、ポニョは死んではいません。眠っているだけ。ただし、このままずっとお魚のまんまなの。それでもあなたは、ずーっと、ポニョと一緒にいてくれますか?」
宗介「うん、ぼくポニョ大好き! お魚だって、ポニョはポニョだもの!」
即答する宗介。眼をみはるフジモト。深く微笑するリサと老人たち。
グランマンマーレ「地上に戻ったらキスしてあげなさい。ポニョは目覚めるわ」

水の引いた港で海を見つめる町民たち。やがて海中から現れるウバザメ号。出てくるのはポニョの眠る水球を抱えた宗介、リサ、老人たち(全員歩いている)、そしてフジモト。ポニョを宗介に託し、別れを告げるフジモト。
町民が見守る中でポニョにキスをする宗介。目覚め、見る見るうちに大きくなるポニョ、どよめく群衆、泣き笑いで人間になったポニョを抱きしめる宗介。
ポニョ「宗介、だーいすき!」
クミコ「ちょっとあんた、お魚のくせに、なまいきよ!」
ポニョ「お魚じゃないもん、ポニョだもん!」
ポーニョポーニョポニョ(以下略)


自分で書いておいて何だが、この展開の問題は、
1.ポニョの行動が自己犠牲に見える。
2.宗介の行動が5歳児の枠を超える。
3.クライマックスが中盤部分のスペクタクルの縮小再現になる。
4.水の引く描写を入れると、沖に浚われる船や車や建造物など、具体的な被害を描かないわけにいかなくなる(犠牲者をも暗示してしまう)。
5.グランマンマーレが、宗介を試すために嘘をつくことになる。

そもそもこういうお約束の展開と観客の満足のために、登場人物に悲惨をもたらし試練を与えることを、宮崎監督はもはや良しとしないだろう。だからこそ5歳児に課せられる試練は「怖いトンネルに子供だけで入る」ことと「元お魚の女の子を愛する」ことにとどめられるのだ。碇シンジを最後までエヴァ初号機に乗せようとしなかった庵野秀明のメンタリティにも通じるような気がする、と言ったら宮崎駿は憤慨するだろうか。
それに、実際こういう映画だったらお前は喜ぶのかと言われれば、そうじゃないよなあと思う。宮崎駿はもう一仕事も二仕事も成し遂げた人で、十二分に楽しませてもらったのだから、その老境にリアルタイムで付き合えるのもファンの幸運というべきだ。まして、こんなアナーキーな映画を結果的に観せてくれたのだから文句をいう筋合いはない(それにしても宮崎アニメがアウトサイダーアート扱いされる21世紀を迎えようとは思わなんだ)。子供連れもそれなりに親子で喜んでたよ。何と言っても、途中ダレようが最後にあの歌ですべてがチャラになってしまう恐ろしさ。ポーニョポーニョポニョ(以下略)

[補遺]
・劇映画としてのドラマ性よりも、奔放なイメージの連続を尊ぶ作りは、東映動画というより虫プロの作風に近い。海の住人が妙に手塚的なのもその印象を強める。
・諸星大二郎どんだけ好きなんだ、という。ていうか諸星の影響が、水準の異なる表現を無理に持ち込ませたことで宮崎の「漫画映画」を破綻させたのではないかと思わないでもない。
・ポニョ来襲のシーンが宮崎原画だとしたら恐ろしすぎる。
・音楽自重。うるさい。
・リサの「どんなに不思議なことが起こってても、今は落ち着くの、いい?」という台詞、あそこでリサが「不思議」を認識しているのは、人面魚を「金魚」として平然と受け入れる世界と整合性を欠くことになる。こういうリアリティ水準の混乱が『ポニョ』では到るところに見られる。漫画映画なら漫画映画で、作品内リアリティの基準は統一されるべきではないか。その意味でも、相互批評としてのシナリオと演出の緊張関係はやはり必要なのだ。
・『ポニョ』は、リアル世界に異界の住人が侵入することで起こる軋轢を描いた『河童のクゥと夏休み』や、異界の住人がいる日常をメタに意識化した『のらみみ』と比べても面白いかもしれないが、どっちも観てないんだよな。
・ゴミと一緒に浚われるポニョ。地面に投げ出されるポニョ。ガラス瓶ごと壊されそうなポニョ。今にも(死の)眠りに落ちそうなポニョ。ポニョの生命の脆さは映画の中で繰り返し示される。これは「命というものは儚いものだ」という以上のことは実は表現していないのではないか。つまり「だから命を大切に」という教訓はそこに含まれていない。5歳の宗介がポニョを死なせなかったのは偶然でしかない。これからも宗介(とポニョ)は、無数の命を奪いながら大きくなっていくだろう。そのことを宮崎駿は「これでいいのだ」とバカボンのパパのように肯定するような気がする。