日々のつぶやき

2009-08-10

WORLD HAPPINESS 2009

WORLD HAPPINESS 2009
2009年8月9日(日)東京:夢の島公園陸上競技場

Yellow Magic Orchestraの名前の大きさを思い知らされるようなフェスだった。真っ先に入場してセンターステージ前を占めるべく、炎天下の行列にはYMOシャツを着た人々が群れていたという。実際開場後も、センターステージ前のエリアの客層と後部エリアとで、客層が古参のYMOヲタと普通のフェスの客とに分離しているのが味わい深かった。それはそれとして、出演者はどの組もとても聴き応えがあり、総じて満足度は高かった。以下、出演順に所感。

■mi-gu
ドラマーのあらきゆうこ率いる、ポスト・バッファロードーター/スーパーカー的なミニマルとエレクトロの入ったロックバンド。何よりあらきのシンプルだがタイトにグルーヴを駆動するドラミングが魅力的。ピック弾きのファズ・ベースが、ダンスではなくロックの側に帰属することを主張する。これはいいバンド。

■pupa
高橋幸宏率いる大所帯のエレクトロニカユニットだが、原田知世ヴォーカルのキュートな存在感だけでなく、メンバー全員の貢献が音と佇まいから感じ取れるのが何より。冒頭から溌剌としたドラミングを聴かせる幸宏にヲタ歓喜。LOVE PSYCHEDELICOのサポートにも駆り出され、権藤知彦と堀江博久は今日一日大活躍。

■コトリンゴ
commons肝煎りで(?)レフトステージに出演。四谷天窓シーンというか、一部で根強い支持を集めるインディーズ女性シンガーソングライターシーンの頂点か。清楚な白ワンピースで演奏後に物販の売り子をするとか、まさに天窓インディーアイドル。歌い方を含めて音楽的には初期クラムボンに近い、と整理すればそこに留まってしまう。サポートドラムが坂田学で当然のように素晴らしい。今回は優れたドラマーに恵まれたフェスだった。

■LOVE PSYCHEDELICO
今回唯一の、腰を揺らすグルーヴを持ったロックンロール・バンドだった。このフェスではそういう当たり前の、ストレートなロックバンドが貴重。現役ライヴバンドの場慣れした演奏力と、楽しそうなヴォーカリストの笑顔と動きに心身が寛ぐ。楽曲にYMO「NICE AGE」を入れ込むなど、YMOファンに気を遣ってるなあ(まあリスペクトもあるのだろうけど)。

■高野寛
デビュー23年目。テントレーベルのオーディションでは、審査員が高橋幸宏とムーンライダーズ、司会がいとうせいこうであったという。その3方の前で、衒いなく堂々と演奏されるのは、往年の大ヒット曲「虹の都へ」であり、代表曲「ベステンダンク」だ。大人になるとはこういうことか、と感心させられた。かつて狭山で行われたハイドパーク・ミュージック・フェスティバルで浴びせられた心無い罵声を思い起こすと、なおさら今の存在感が頼もしい。

■Y.Sunahara
トランスでもエレクトロニカでもなく「テクノ」というジャンルの中心を貫くような楽曲群が、スタイリッシュな映像を伴って、大音量かつ最良の音場感で味わえた。その演奏スタイルも、ラップトップと音源を組み合わせたような、近年のクラフトワークのステージに似た王道そのもの。ところでまりんの今のYMOに対する心境は、『ヱヴァ:破』を遠い目で眺めるあびゅうきょのそれに近いのではないか。

■ASA-CHANG&巡礼
浦山秀彦は欠席。ASA-CHANGとU-zhaanの二人の打楽器奏者が、エレクトロニクスと生楽器を交えながらエスニックな躍動を生み出す姿が圧巻。U-zhaanがタブラをトリガーに、サンプリングされた女性の言葉を呼び出し、リアルタイムで文章を練り上げていくパフォーマンスが面白い(あるいは、言葉はあらかじめ遂時的に並べられているのか)。

■スチャダラパー
いきなり「ブギーバック」で中年の掴みはOK、会場は総立ちに。「みなさん座ってゆったり聴くモードだとライヴが成立しないのでどうしようかと思った」だの、「皆さんに「セイイエー」とか強要するのは心苦しいんですが」だの、眼前のYMOファンに対する心遣いの数々。たぶん、前年にLIVE EARTHでHASYMOの直前に出てエライ目に遭ったというリップスライムあたりから因果を含められているのではと推測。おそらく放送でもソフトでも流れないであろう登録商標連発の曲とか、「マンモスうれピー」とかいろいろありつつも、なぜか可愛らしい動物の映像しか覚えていないから不思議。

■THE DUB FLOWER
いとうせいこうとかせきさいだぁ≡、DUB MASTER Xが組んだバンド。黒い生演奏によるヒップホップのアプローチは、かつて近田春夫がビブラストーンで試みたスタイルだ。ダビーな演奏に乗せて井上陽水「傘がない」とボブ・マーリー「EXODUS」をカヴァー、閉塞からの脱出を訴える。いとうせいこうの言葉は、もはやライムの形すらとらず、ストレートに噛んで含めるように観客に伝えられるのだが、このスタイルの説得力はMCのキャラクターに依存するのではないか、と思わなくもない。笑いを捨てたいとうせいこうの本気はどこまで伝わるだろうか。

■Chara
膀胱の訴えに従った結果、遠くで行列に並びながら流れてくる音を拾うのみ。ブランクのためかちょっと痛々しかったような。

■グラノーラ・ボーイズ
田村玄一、桜井芳樹のロンサムストリングス組に、キリンジの堀込高樹が呼びかけて成立した、脱ロック/汎民族音楽的ポップユニット。どちらかというとかつてのワールド・フェイマスや鈴木惣一朗の手掛けそうな音楽をなぜ堀込アニが、と思うがこれが素晴らしい。ジェントルな声と滑らかな演奏が溶け合って、このフェス一番の心和む音楽が展開された。1曲目はマイケル・ジャクソン『OFF THE WALL』の収録曲をハワイアン風に(?)アレンジしたものだったが曲名不明。桜井のギター名人ぶりはさすがだが、元シンバルズのドラマー矢野博康の演奏もよかった(またしてもドラマー!)。それにしてもこの演奏が耳に入らず、声高にYMOの話をしてる人は何なのか。

■ムーンライダーズ
慶一はスズキ自動車のマークのついた真っ赤なサッカーのユニフォームを着て登場。曲はまあ野外フェス向けというか、「ヴィデオ・ボーイ」「シリコン・ボーイ」「冷えたビールがないなんて」「BE ATTITUDE」といったライダーズファンおなじみの曲が、ラウドでラフな(ややグダグダな)演奏で披露される。あんたら、もっとイイ曲山ほどあるだろう!と思うが、フェスだから仕方ないのか。だが、どうもライダーズファンがそれほど多くはないらしく、いつものコール&レスポンスもやや疎ら。そのくらいの温度でいいんだよ!いつもいつも予定調和じゃバンドがダメになるよ!(何様)しかしステージ上の慶一のアグレッシブな動きは大したもの。大画面に映し出されたこの可愛いおじいさんは何者なの、と非ライダーズファンの心に刻まれたであろう。岡田と武川は太ったなあ。くじらなんて顔の丸さが南佳孝みたいだった。

■相対性理論
ライヴを観るの初めて、音もCDは買わずYOUTUBEで知るのみ。だったけどこれはすごく面白かった。パワーコードって何それとばかりに単音を連ねていくギタリストに、ハイハットで精緻に16を刻み続けるドラマー(またしても凄腕!)、ファンキーなグルーヴを確実にキープするベーシストの組み合わせは、往年のポリスのような演奏力だ(誇張)。そしてその無駄に高い演奏力が、グラビアポエムかネカマの繰り言のような歌詞を棒立ちで歌う萌え声ヴォーカルに合わさると、あざとさを超えたストイックな説得力が生まれる。ライヴハウスの密室的な共犯感覚のない野外フェスだからこそ感じる、身も蓋もないバンドのむき出しの骨組が魅力的だった。ちなみに映像は固定カメラによる遠景のみで、決して顔のアップを交えない徹底ぶり。

■Yellow Magic Orchestra
さて、これだけのために来たと言ってはばからない観客の思いに、YMOは応えられただろうか。
1曲目は何とビートルズ「HELLO GOODBYE」のカヴァー、というよりコピー。幸宏のドラムはリンゴの手癖を見事にトレースし、細野のベースはヘフナーのヴァイオリンベースだ(さすがに左利きではなかったが)。
なかなかに洒落の利いたお遊びと思いきや、次に演奏されるのは「千のナイフ」! 原曲のスカ/レゲエ調ではなく、ヘッドハンターズのようなファンクスタイルで演奏されるそれは確かに新鮮だった。小山田のノイジーなギターは「もっとアイズレーみたいに弾いてくれ」という感じだが。
前年の白眉だった「RIOT IN LAGOS」は今年も演奏された。この演奏を断片的に聴いて、フルで聴けなかったことを悔やむ気持ちで今年のフェスには参加したのだが、演奏の完成度は前年度のそれには(そしてヒホンでの演奏にも)及ばない。ECMの空間性/音響性とCTIのダンスグルーヴを折衷する、究極のジャズファンクとも言える演奏は今年は聴けず、マイルス・デイヴィス『アガルタ』のような渾沌が取って代わっていた(ここまで過剰になってしまうと、2007年のパシフィコ横浜でのクールな演奏がむしろ好ましく思える)。
その原因は自然な移り行きというよりは、単に不調というべきものだろう。教授の絶妙だったエレピのバッキングは影を潜め、前年度は世界最高級だった細野のベースは不調だった。リハーサル不足か体調不良か(かなり痩せていた)、慣れないヴァイオリンベースに苦労したか(なぜ2曲目以降でフェンダーに持ち替えなかったのか。あれはファンクベーシストの楽器じゃないだろう)。一方、高橋幸宏のドラミングは近年、どころか過去最高と言っていい素晴らしさで、本日演奏した優秀な若手ドラマー全員を凌駕してしまったほど。どうしたんだ一体。
アンコールに演奏されたのは「ファイヤークラッカー」。この演奏もまた素晴らしいもので、木琴を演奏する細野の姿はいかにも新世紀のYMOらしい。
とはいえ、近年のYMOの再活動にもずいぶんしがらみができてしまったようで、完全停止でも構わないが、少しペースを緩めてもいいのではないかとは思う。

センターステージとレフトステージを交互に切り替える進行は、セットチェンジの待ち時間すらない実に効率的なものだったが、その効率主義が客にとっては、追い立てられるような余裕のなさに感じられもした。とはいえ、短時間で数多くの価値あるアーティストのライヴを、ある程度まとまった量で味わえるというのは、なかなか優秀なパッケージではなかったかと思う。さて来年はどうしようかな。またYMO頼みだとなんだかなあ。

そういや地震凄かった! 終了後だったけどさすが埋め立て地、液状化のメッカだと思ったよ。

2009-08-07

『サマーウォーズ』に主人公側のドラマを加えてみる

もしも健二にとって「数学の才能」が「呪い」だったとしたらどうだろう?

☆☆☆

体育会系で会社人間の父、会社勤めで事なかれ主義の母。抑圧と孤独のもとで育った健二。

スーパーでレジ打ちの計算間違いを大声で指摘する幼い健二。わき起こる笑い。赤面する母。健二を睨み付けるレジ係。母「恥をかかせないで!」

食事時に算数の100点の答案を掲げて自慢気な健二。父「食事に集中しなさい。男がそんなものをむやみにひけらかすんじゃない」

父親の意向で剣道を習わせられる健二。一向に上達せず、後輩にも侮られる日々。

数学教師の間違いを指摘する中学生の健二。以後教師から3年間無視され続ける。

好きな女の子に「数学教えて」と頼まれる。夢中で教える健二。つい「なんでこんなのが分からないの!」泣く女の子。数日後、イケメンと歩いている女の子の姿を目撃する健二。

高校入学。数学の試験問題を入手した不良たちに囲まれ、問題を解くように強要される健二、やむなく協力。やがて不正が発覚、連座して親を呼び出される。父に殴られ、母は泣く。

(主人公補正)意地で断り、不良にフルボッコ。そこを、竹刀を振るう夏希に救われる(健二に狂言を依頼する伏線)。

本人は乗り気でなかったが、数学教師の勧めで数学オリンピック予選に出場。呪わしい数学の才能が、実はありふれたものと思い知り、しかも本選に進めず。唯一の拠り所を失う健二。友人「数学だけがとりえだと思ってたのになあ」健二「……」

長野の陣内家。携帯に届いた謎の数字の列を、オリンピック落選の憂さ晴らしに解いてしまう健二。そしてOZの大混乱。健二「また数学のせいで、ろくでもないことに……!」

——以上の身の上を夏希に話す健二。だがそのヘタレぶりを一蹴される。夏希「あんたに数学のできない人の気持ちが分かるの?よく何もとりえがないとかいえるわね!どんだけ上から目線!(観客の代弁)」
「数学しかできないんなら、数学でできることを何か考えなさいよ!」

こいこいステージ。世界中のアバターを背負いながら、最後の決断に悩み苦しむ夏希。
そこに健二、自信あり気に「大丈夫、先輩、これで合ってますよ!」
夏希「(健二くんが計算してくれたんだ! 大丈夫!)」
そして勝利。だがしかし
健二「えっ、ボクは夏希先輩を信じてただけですから! こいこいの結果予想なんてムリムリムリムリ」
思わず健二を殴る夏希。

そして、ラストで数学の能力を全肯定、全解放。
→呪いの解除、社会(家族)からの承認

☆☆☆

……というようなフォローがあったなら、「リア充死ね」という非モテの怨嗟の声をそれほど浴びることもなく、大家族に憧れる理由付けともなり、『時かけ』の「高瀬くん問題(いじめに切れて消火器を振り回す人)」への一定の回答にもなり、『ぼくらのウォーゲーム!』とはまた違うカタルシスが生まれたのではないか。

まあ後知恵で何とでも言えるわけだけれど。それにしてもPixivでサマーウォーズ絵を描いているのがほとんど女性であり(しかもカズマ/キングカズマが大部分を占める)ネット上で映画を罵っているのが男性に集中しているのを見るにつけ、細田守はある意味勝者だなあと思わずにはいられない。

ところで本作での大家族礼賛に対する「我々はそれがイヤで核家族を選んだのではないか」という批判を見かけたが、ここでの「大家族」は「縮小された社会」に等しい。家族から逃げても「口うるさい小舅」や「セクハラおやじ」「DQNないとこ」はどこにでも存在している。逆に言えばこの社会が「拡大された家族」なのであり、どこにも逃げ場はない。細田守は東映アニメーションという旧弊な大会社で、戦うことでのみ製作条件を勝ち取ってきた人だ。「抑圧のない場所で人が育つわけがない」と言い切る彼は、宮崎駿同様に戦闘的な個人主義者であり、「ネットで言葉を吐いてるような奴が個人主義とかw」などとうそぶいているのかもしれない。そのメンタリティはDQN的とさえ言えよう。村上隆と仲良いのは案外そのあたりの共通性にあるのかも。

2009-08-04

『サマーウォーズ』感想(Twitterまとめ・ネタバレ)

久々のブログ更新がこれというのも何だけど。ほぼ投稿順に。

☆☆☆

『サマーウォーズ』観た。とにかくよく出来た娯楽作だが、情動は刺激されない映画。『ぼくらのウォーゲーム!』を観たことのない人の感想が知りたい。

数年前のSFではネット空間とそのキャラクターは「異界/他者」として描かれたのに対し、『サマーウォーズ』では徹底的に現実と紐付けされた「アバター」として描かれる。

『ウォーゲーム!』でネットで戦う主人公を支援したのは「未知の新世代」としての子供たちだったが、『サマーウォーズ』では普通にアカウントを持っている市井の人々がその役を担っている。この変化が、この10年にインターネットが獲得してきたものでもあるのだろう。

画面一杯に並ぶ変色した手紙や写真の群れは、可視化されたネットワークの姿。そこに介在するのは手紙という近代システムであり、写真機というデバイスであり、電話という情報テクノロジー。

「守るべきもの」が自分→恋人→その家族→地域→国→世界と同心円状に広がる。それを可能にするのは情報テクノロジー。人はネットワークによって生きる。

一家族に社会インフラの担い手と、世界を動かす才能が集うのは、映画のご都合主義でもあるが、平凡な「家族」が市井の人々に支えられた「社会」のアナロジーになっているため。主人公の天才も、人が社会のなかで担いうる何らかの役割に敷延される。

一家族が世界を救う戦いに挑むという発想は、共同性の再発見という非常に健全なテーマに収束する。

その主題の健全性が、時にアニメーションの官能性を抑圧する。

『サマーウォーズ』を高畑ジブリ作品的な健全さから官能性の側へと救い出すのは、観客側の主体的な欲望にかかっている。

そんなわけでケモショタ方面の動向に注目(しない)。

■以下とりとめないメモ

仮想空間が「OZ」というのは、ウテナの「鳳学園=大泉学園」に続く東映のメタファーかな。巨大なるものはすべて東映w

そういえば『サマーウォーズ』を観たのは、リアルOZことTジョイ大泉なのだった。

もう少しルール説明が劇中でなされていたら「花札アニメ」という新ジャンルが開けたかもしれないのに残念。

思った以上にジャンプバトル度が高いのは意外。pixivのサマーウォーズ絵がカズマ/キングカズマ一色になっているのもやんぬるかな。

正直『電脳コイル』以後の仮想現実描写としては古い気もするが、細田印のデザイン性と圧倒的な物量で押し切った感がある。