日々のつぶやき

2008-04-16

ぐるり

三鷹松八のとんかつ定食390円祭りが本日までなので、選択の余地なし。しかし2日続けて油もの、しかも昼からはちょっと重い。
駅ビルの文教堂にて、「コーヒー1杯分の情報マガジン」と銘打たれたミニコミ誌『ぐるり』が小川美潮特集号だったのでしばし立ち読み。値段も300円だったのでそのまま購入、ドトールにて読む。中央線沿線と下北沢周辺の文化情報紹介が骨子の雑誌だが、70年代を引きずるような中央線臭さはそれほど感じない。むしろサブカル雑誌というのではなく、地元のライヴハウスや小劇場通いが身に付いている人々にとっての「生活情報誌」に近いかもしれない。ほとんど自転車で移動できる範囲を生活圏とする私にとって、必要な情報はこの1誌で充分ではないかとも思った(だからといって定期購読しようとまでは思わないが)。

今宵、あの人を想う

今宵、あの人を想う 2
2008年4月16日 於:吉祥寺MANDA-LA 2
出演:渋谷毅pf ゲスト:小川美潮・金子マリ

三鷹駅前のドトールでミニコミ誌『ぐるり』を読みつつ、そういえば最近ライヴに行ってないな、何か近場で面白そうなのないかな、などと何気なく小川美潮インタビュー末尾のライヴ情報に目をやると、まさに本日吉祥寺でライヴがあるではないか。開演時間は19:30。そして現在時刻は19:25。席を立ち自転車を飛ばし、何とか20分ほどの遅れで到着。すでに渋谷毅のピアノ演奏が始まっていた。

私にジャズを語る言葉はないのだが、この日に演奏されたのはいわゆるジャズのスタンダードナンバーではなかったと思う。どこかで聴いたけれど名前が出て来ないような、例えばフォスターの歌曲のような耳に馴染んだものが多かった。それも殊更ジャズ風に、スゥインギーなリズムや複雑な和声を加えて編曲するというものでなく、曲のあるべき輪郭を丁寧に指でなぞるような軟らかいタッチで奏でられる。無私とか禁欲というのとも違う「初めに歌ありき」というべき自然さがそこには感じられた。このスタンスが、この日のパフォーマンスすべてに通底していたように思う。

続いて小川美潮が登場。ウズマキマズウ名義での新作『宇宙人』が発表されたばかりだが、今回はそのお披露目というわけではない。かつてのソロアルバムに収録された名曲の数々が、渋谷毅の優しく手を添えるようなピアノに寄り添いながら、新しい息吹を吹き込まれて再演される。チャクラやキリング・タイム、はにわなどの強力なバンドとの間に生まれるテンションの高さはここにはなく、公園のベンチの心地よさに思わず歌い出したかのような気楽さ、自然さが充ちていた。かつて小川美潮の歌には「ニューウェーヴ」出身者にありがちな演技性がどこかに感じられたが、ここでの歌声には何のあくどさもなく、ただただ天真爛漫、天衣無縫な佇まいがあるばかりだ。近年の矢野顕子にも似ているが、矢野が決してピアノの前から離れることができないのと違い、小川美潮には身一つ歌一つで板の上に立つ身軽さがあり、そこが活動の自由度の高さに現れているのだと思う。

この日のもう一人のゲストが金子マリだ。煙草を指に挟み、グラスを手にステージに上がる。ありがちな無頼のポーズなどではなく実に自然な風情だ。その煙草と酒の影響もあるのだろう、若い頃よりもひび割れが増し音域が低くなったその声は、しかし完璧にコントロールされて、余裕たっぷりにスタンダードナンバーを歌い切ってみせる。体に染みついた紫煙やアルコールと同様に、ブルースが歌に染みついているのだ。小川美潮とはまた違うタイプだが、この人も異様に歌が上手い。渋谷のピアノも心なしか夜の深さを増したかのようだ。彼女も参加するスモーキー・メディスンのコンサートのチケットは売り切れだという。でも私は四人囃子が見たかった!(何だそれ)

二人で小川美潮の「DEAR MR.OPTIMIST」を歌う楽しい一幕もあり(美潮さんは歌詞が飛んでいたけど)。渋谷の意向で、お約束のアンコールはなしの幕切れもまた潔い。
この夜、素敵なピアニストと歌姫たちに想われた「あの人」とは高田渡。4月16日は渡さんの命日だったのだ。

ところで物販で美潮さんの『宇宙人』を購入、サインをいただいたのだが、宛名を訊かれて「まろんさんへ」とは言えず、本名、しかも名字にしていただいた。だって恥ずかしいじゃないか。ハンドルネームはよく考えてから付けるものだ、と思うのは、もはや何度目のことであったか。

帰宅後、鶏肉・舞茸・ブロッコリーを具にカルボナーラ作り夕食。ブロッコリーは鍋に残したパスタの茹で汁で別茹でにして最後に合流。今度はバッチリ。付け合わせの葱わかめスープは面倒なのでインスタントのまま手を加えず。