日々のつぶやき

2009-06-26

『けいおん!』最終話を観終えてのメモ

http://www.tbs.co.jp/anime/k-on/

Twitterで一行ずつ書くような感じで。実際にやりかねなかったが自重してよかった。

☆☆☆

物語は、ストーリーとドラマで構成される(オレオレ定義につき注意)。
時系列に沿って起きる出来事を並べたものがストーリー。
登場人物の横のつながりの間に生まれるものがドラマ。萌えはその最小の現れだ。

1クール13話程度の長さでは、実のところ充実したストーリーを描くには足りない。
ストーリーとドラマの両方を満足させようとすれば、どちらも中途半端に終わる。

ならば、1クールのほとんどを、個々の登場人物の内実と、その関係性に根ざすドラマに費やすのはひとつの戦略として正しい。
ストーリーは他愛なく、キャラクター性とその相互の関係性を重視した萌え4コマという原作フォーマットは、その点で1クール放映の深夜テレビアニメというフォーマットに最適であるといえる。

『けいおん!』は、まさにそのようにして生まれた、萌え4コマ原作アニメの最大の成功例として(『らき☆すた』を措く理由は後述)今後語られるだろう。

その希薄なストーリーによって語られるべき最大の主題が「成長」というフォーミュラであり、その「成長」は「音楽」によって達成されなければならない、というのが作品属性が要求するミッションとなる。
ストーリー上の最終回である12話「軽音!」は、その主題とミッションの完璧に近い達成だといえる。

ただし、「成長」のフォーミュラをあまりにも忠実にトレースしたところが、ややもの足りなさを感じさせないでもなかった。
なぜなら、萌え4コマ原作アニメとしての『けいおん!』の本質は、キャラクター相互の関係性から生まれる「萌え」を拡張した「ドラマ」にあると思うからだ。

その「ドラマ」の最も先鋭的な実現が、わずかな動きとレイアウトとカット割りの驚異的なデリカシーによって描かれた11話「ピンチ!」である。
その11話を見せられた後では、12話はあまりにも「いい最終回」にすぎた。
もっともそのベタな心地よさは、近年まれなプロの仕事ぶりだと感嘆はしたが、そこからはみだした「ドラマ」を惜しむ気持ちは残った。

それゆえに「冬の日!」はストーリー上の「13話」ではなく「番外編」として用意されなければならなかったのだ。
奇しくも芭蕉の句集と同じ題名を持つこのエピソードでは、軽音部5人それぞれの物語が、俳句のように独立して進行する点景として描かれ、出来事が「ストーリー」として並べられてはいない。

しかもその点景は、必ずしも穏やかなものではない。
律は、ささいな誤解により煩悶する(深刻ではないが、11話を反復するように)。
梓は、友人から預かった小猫の変調にパニックを起こす。
紬は、1人で挑戦したアルバイトで(成長!)しでかした不始末に涙ぐむ。
そして澪は、創作のために自らの意志で、仲間の輪から外れようとする。
これらの個々の出来事は、相関を持たずに独立しているので行き場がなく、些細な問題であるにもかかわらず、解決が見えずに視聴者に強い不安を与える。
今回ごくわずかしか用いられないBGMも、効果的に緊張感を高めている。

その不安と緊張を取り払うのが、ほかでもない主人公であるところの唯だ。
メンバーのうち1人だけ何の不安もなく、妹の憂と楽しげに鍋の用意をしている彼女は、ほかの4人の事情などおかまいなしに、どうでもいい内容のメールを発信する。
そのメールの介入により、ばらばらな5人の時間がふたたび縒り合わされて「ドラマ」が生まれ、不安と緊張の時間は終わり、いつもの「ふわふわ時間」が流れ出す。
「軽音!」がストーリー上の主題である、唯の成長を描くのに対して、「冬の日!」は5人を結びつける要としての唯の存在価値を描いているといえる。
2つのエピソードは「ストーリー」と「ドラマ」の両面から、唯の主人公たる所以を明らかにしているのであって、どちらもシリーズの末尾に置かれるべき「最終回」なのだ。

監督の山田尚子と脚本の吉田玲子が「新しい作品」として求めたものは、どちらかといえば後者の「ドラマ」にあったのではないかと思う。
しかし、そこだけを求めるなら『らき☆すた』とはまた違う意味で前衛作になりかねない。
そこで、ベテラン石原立也と花田十輝に「ストーリー」としての完結編を委ねて商業作品としての要件を満たし、新人監督と(ベテランの)シリーズ構成のコンビは、そこに盛り切れない番外編で「新しい作品」の本質を全うしたのではないだろうか。
そう考えると、これは変則的なファンサービスではなく、実に理に適ったシリーズ構成だ。

『けいおん!』放映開始当初に私は

案外優れた「日常アニメ」を生み出す可能性のある好企画

と書き
ただし、萌え4コマの「空虚」に向かいあう姿勢において『らき☆すた』より後退した感は否めない。京アニの技術力をもってすれば「空虚な日常」の空虚さそのものを映像化できるのではないか、というのが、小ネタで客を釣りつつ山本寛が目論んだことに違いないのだ。『けいおん!』では吉田玲子という「プロの脚本家」を得て、原作の空しさを補完し、30分のエピソードを持たせられるだけの内実を与えてしまっている。
いや、まっとうな作り手ならそうするに決まっているのだが。
とりあえず『けいおん!』は京アニ版『ひだまりスケッチ』ではなく、「最良の舛成孝二アニメ」に近いものになってくれることを期待しつつ観続けたい。

と書いた。
http://marron555.blogspot.com/2009/04/blog-post_10.html
その期待はかなり達成されたのではないかと思う。

『らき☆すた』で山本寛は、空虚さを空虚さのままに提示して、視聴者の2次創作的な想像力がドラマを補填するための「場」を用意した。その「場」は後を受けた武本康弘によって「遊び場」と化し、作品に商業的な成功をもたらした。

『けいおん!』ではそんな原作4コマの空虚に、作り手が内実を補填したという意味で「公式2次創作」ともいえなくはない。
ただし、その空虚には実は宇宙を満たすエーテルのように、「ストーリー」や「主題」では捉え切れない豊かな「ドラマ」の原資が横たわっていることを、受け手が想像で補うまでもなく圧倒的な描写力で示して見せた。これは本来保守的な作り手である京都アニメーションが『らき☆すた』の反則的な成功の後に、その実験性も踏まえたうえで産みだすべき作品として、実に無理のない達成ではなかったか。

2009-06-24

夕食メモ

西友ブランドの塩ラーメン:鶏肉・もやし・ニンジン・椎茸・卵・万能葱を具に。
冷奴:おろし生姜載せめんつゆかけて。
胡瓜とちくわの辛し和え:包丁の柄で押し潰してから大振りに切った胡瓜と、ちくわの輪切りを豆板醤・柚子ポン・ごま油・すりごまで和える。

昨日の夕食との差分チェックみたいだが、限られた材料を使い回す苦心が如実に窺え、真に主婦に役立つ献立だと言えまいか。もっとも主婦は夕食にインスタントラーメンは出さないだろうけど……。

光の速さで保存

本日、我が陋屋にBフレッツが開通した。ADSLでも特に不満はなかったのだが、小さな郵便受けに押し寄せる「重要なお知らせ」の茶封筒の山、数少ない固定電話の発信源であるところの勧誘攻勢に加えて、ついに直接部屋のドアをノックされたあたりで心が折れた。もうどうにでもなーれ、と、たまたま受けた電話に応えてしまったのだ。

それから10日で開通したのだから結構な段取りではある。最初はそれほど速さを実感しなかったのだが、動画を観るとやはり快適。回線の無駄遣いという気もしないではないが、安いからいいか。




これはいいおっさんホイホイ。

2009-06-23

夕食メモ

冷やしとろろそば:山芋すりおろし、刻み葱、刻み海苔を冷水で締めたそばとよく混ぜて、つゆにつけながら啜る。とろろと葱と海苔の残るつゆを、そば湯で割って完食。
もやし・胡瓜・ちくわの酢の物風:輪切りにした胡瓜を塩もみし放置、水洗いして絞る。茹でたもやしを冷水にさらし、胡瓜、ちくわの輪切りとともに、柚子ポン・ごま油・すりごま・七味で和える。
冷奴:生姜すりおろしを載せてめんつゆをかける。
鶏の塩焼き:鶏肉に塩・黒胡椒をまぶし、魚焼きグリルで焼く。

暑くて億劫だから簡単なものを、と思って始めたら、それなりに手間がかかるうえに結構な量になった。美味かったけど。

爬虫類の日

くもりのち晴れ。部屋干しで生乾きの洗濯物を外に出す。暑いがまだクーラーは使わない。窓を薄く開け換気扇を回して凌ぐ。

午後から石神井公園へ。夏の到来とともに緑ばかりが濃さを増し、アジサイを残して周囲の色彩が奪われていく。環境調査で捕獲されたカメ数匹、足下の木道を走るカナヘビ2匹に加え、公園を囲む土手の薮に蛇まで発見。ヤブヘビだ。いや、薮に姿を消したのだから逆か。今日は爬虫類に縁がある。これが瑞兆で金運がもりもりアップしたりするとよい。

公園に集うカメラマンといえば、定年後の暇を持て余した初老男性であるのが常なのだが、今日は三脚と望遠レンズを装着した一眼レフを構える若い男の姿を、公園のあちこちで見かけた。平日の昼間というのに、いったい何をしている人たちなのだろうか(……)。

一度入ってみたかった駅前の喫茶店「シュベール」で、チーズケーキとアイスコーヒーのセットを注文。ゆったりとした店内には適当に客がいて層も広い。安カフェに比べれば高いが、コーヒーのおかわりが100円でできるので、2杯頼むのがお得。私もホットコーヒーを追加、飲み干すまでにマイケル・シェイボン『ユダヤ警官同盟』上巻(新潮文庫)を読了した。イスラエルが建国されなかった現代世界で、アラスカに設置されたユダヤ人居留地で起こる殺人事件の捜査が、ハードボイルドタッチで描かれる。改変歴史小説といえばプリーストやエリクソンを連想するが、むしろ矢作俊彦が中国に支配された現代の横浜を舞台に私立探偵ものを書いたらこんなふうになるのではないか。SF的な大ネタがあるかどうかは下巻を読まなければわからない(主要SF3賞を独占している)。それはさておき、この店は食事のメニューが充実しているのがありがたい。今度はハヤシライスでも注文してみよう。

帰ると洗濯物はすっかり乾いていた。それにしても暑い。夕食作るの億劫。

2009-06-22

夕食:鶏とチンゲンサイのパスタ

食べやすい大きさに切った鶏肉に、塩・黒胡椒で下味を付け、オリーブ油で炒め、焼き目が付いたら油を切って取り出す。
たっぷりの湯と塩でパスタを茹でる。
鶏を焼いた油の残るフライパンにニンニクみじん切り、裂いたぶなしめじ、食べやすい大きさに切ったチンゲンサイを順次投入、鶏肉を戻し中華ガラスープと日本酒を加える。
茹で上がる前のパスタを適量の茹で汁とともに加え、汁がなくなったら完成。

湿気に耐えて作った甲斐あって、塩気も茹で加減も丁度良い。冷奴とペットボトルの茶を添えて食う。

つぃったららー

「Twitterで書けばいいようなことを、あえてブログで書く」という方針で長年暇つぶし日記サイトを運営してきた私だが、突然「Twitterで書けばいいようなことは、Twitterで書けばいいじゃない」というひとつの気づきを得て(←ライフハックふう)Twitterを今ごろ始めてみました。ていうかミクシィエコーで充分だったんだけど、サービスがどんどんいらない子扱いになってきたので乗り換えた次第。おかげで順調にブログの更新が滞ってますが、ヘッダの下の3行ほどを読めば生存が確認されると思います。3行以上読みたい人は「follow me on Twitter」をクリックしてください。followしなくても大丈夫よ! べっ別にアンタに以下略。それはそうとfollowの数が3桁くらいになると、情報の奔流が緑の文字列となって滝のように網膜上を流れると聞くが(新しい表現!)、今のところ井戸に小石を投げ込んでは水音を聞くような感じで、知り合いからfollowされたら返すという状態。まあしばらく様子見で。アルファついったらーへの道は果てしなく遠いが、弥勒菩薩が降臨するまでにはなんとかしたいものだ。

で、日常の些事はTwitterで、長文のオピニオンはブログで、という使い分けにはなりようもなく。とりあえずこれから夕飯作るのが面倒。部屋干しの湿気が私を打ちのめすー。

2009-06-13

購入メモ(5月後半〜6月前半)

漫画
カラスヤサトシ『カラスヤサトシ』4巻(講談社)
袴田めら『わたしの大切なともだち』1巻(双葉社)
おがきちか『Landreaall』14巻(一迅社)
小石川ふに『ゆるユルにゃー!!』2巻(徳間書店)
岩本ナオ『町でうわさの天狗の子』4巻(小学館)
あずまきよひこ『あずまんが大王』1年生(小学館)
岩岡ヒサエ『ゆめの底』(宙出版)※ブックオフにて350円

CD
あがた森魚『少年歳時記』(08年)
ブックオフにて1550円。これまでで一番高い買い物かも。

2009-06-12

喪の仕事

ロッキングオン流の、というより渋谷陽一流のインタビューが昔から嫌いだった。インタビュアーの中であらかじめミュージシャン像を用意して、そこに向かってインタビューイを追いつめていくようなやり口や、対象との距離を限りなく近づけようとするような馴れ馴れしさが苦手だった。音楽の来歴そのものよりも、ミュージシャンの下世話なライフストーリーばかりを追及する歪んだ「作家主義」では、アイドルを捏造することはできても、決して音楽そのものには近づけないだろうと思っていたのだ。

ところが『ROCKIN'ON JAPAN 特別号 忌野清志郎1951-2009 』を読んで、少し考えが変わった。忌野清志郎への追悼として、過去のロングインタビューに加え、清志郎の死を受けての仲井戸麗一(!)と坂本龍一への特別インタビューを併載したその本からは、ラジオで聞きなれた渋谷陽一の早口で甲高く軽薄な喋り声とともに、含羞と韜晦と偽悪が交錯した、忌野清志郎のしゃがれ声がはっきりと再生されたからだ。

どんなにレトリックを駆使しても、決して誌面から音楽が聞こえることはない。わかる人には参照可能なインデックスとなるバンド名の羅列も、そこに至る以前に教養主義の壁となって立ちはだかる。だいたい作品自体は語られようが無視されようが残り続けるが、作者はいつか存在そのものが消滅してしまうのだ。それならば、音楽を文字情報で記録しようとする徒労よりは、生きた人間の言葉をライフログとして残そうとすることのほうが、雑誌にできる役割として理に叶っているといえないだろうか。渋谷陽一と彼の雑誌は、清志郎の生前からこの時のために、その墓碑銘=エピタフを刻み続けてきたのだ。混沌こそ我が墓碑銘。21st Century Schizoid Magazineというかつての二つ名は伊達ではなかったのだ。渋谷陽一さん、あなたは正しかった。

考えてみるとロック雑誌、あるいはロック評論そのものが、死にゆくジャンルのための墓碑銘あるいは遺言を刻むためにあるのかもしれない。差し詰め『THE DIG』は墓荒しか。

閑話休題。ここに収められたインタビューでは、渋谷が前もって描いていたイメージと(そうでなければプロのインタビュアーではない)、そこに寄り添うようで柳のようにすり抜ける、清志郎の適当な強靱さが拮抗して、スリリングな読み物が楽しめる。R&B系の評論家なら、もっと「音楽的」なインタビューにもなったかもしれないが、そこからはこの「ヒューマン・ストーリー」の面白さは生まれないだろう。今、チャボのインタビューを取れる編集者が(これまでの関係性を築くうえでも貢献した図々しさも含め)渋谷陽一以外にいるだろうか。それだけでもこの本は貴重である。もっともこの「ヒューマン・ストーリー」の強度は、時に音楽そのものに向かおうとする心を縛りつけてしまいかねない。だからそろそろこの本を閉じて、RCサクセションのレコードに針を落とそう。

2009-06-09

帰ってきました。

6日の夕方の飛行機で。羽田に着いた途端に湿った空気がまとわりつく。人波をかきわけ、母親への理不尽な悪口をまくし立てる若い女の会話に気を取られて、乗り換え駅の渋谷を乗り過ごし、吉祥寺駅のホームでは頭のおかしな男が怒声を上げていた。ここが東京だと実感する。

回転寿司で夕食を済ませ、果てしなくバスを待ち続け、家に着いたのは21時。函館での18時に夕食、20時に入浴、22時には就寝という生活時間を早くも逸脱しつつあり。それでもこの日は23時に就寝。せっかくだからこの習慣を維持したいものだ。

翌7日。5時半に起床、シャワーを浴び、洗濯をし、食料を仕入れ、ネットを逍遥するうちに昼。ヤマザキのコッペパンとモンテールのシュークリームで昼食とし、刺身タンポポのせ作業を突貫で終わらせ、吉祥寺での待ち合わせに急ぐ。それにしても人大杉。北朝鮮よミサイルはどうした。などと心中で毒づきつつ無事に知人と会合、久々にオタ話に花を咲かせ。別れて渋谷に向かい、これも久々にカラオケ。アニソンとプログレ担当として、クリムゾン「21世紀の精神異常者」、四人囃子「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」を間奏まで歌うという謎の新機軸を披露、呆れられる。散々飲み絶叫して帰宅。翌朝声が嗄れていた。

と、こんな感じで東京生活に復帰。正直、実家での平穏かつ規則正しい日々の繰り返しに慣れすぎて、本当に東京に戻れるのだろうかと思い始めていたが、まあなんとかなるものだ。渋谷にも吉祥寺にもミサイルが落ちなくて良かった、と思い直す程度には、それなりに居場所もあるらしい。

写真は、1日に母の要望で出かけた、五稜郭公園の藤棚。