日々のつぶやき

2009-03-23

会えない時間が愛育てるのさ

渋谷にて朝イチの用を済ませた後、帰りの井の頭線を途中で降り、井の頭公園を抜け、上水のほとりを三鷹まで歩く。ほころびはじめた桜、マゼンタそのままの桃、早くも散りつつあるコブシなど、心地よくも花粉を含んだ風に吹かれつつ、前倒し気味の春を全身で楽しむ。鼻がつまっているので香りは希薄だけれど。

鈴木茂が大麻不法所持で逮捕され、はっぴいえんどを始めとする関連作品のリリースと流通が一斉に止められた。
そのことの是非は措き、私が思い出したのは70年代後半に、やはりはっぴいえんどの作品が入手困難だった一時期があったということだ。

もちろんその理由はメンバーの不祥事などではない。URCレコードの活動停止後に販売元となった東宝レコードが倒産し(※)、権利がSMSレコードに移行するまでの期間、「ゆでめん」や『風街ろまん』は音楽市場から消えていた。
その不在期間が後追いのファンの飢餓感を煽り、幻のバンド・はっぴいえんどの伝説化を助長したのではないかと想像する。中古盤を探すか、ラジオを偶然耳にするか、先輩や友人の所有するレコードを回し合うしか直接に音に触れる手段のない状況下に、商業作品の流通とは別の回路で伝説は維持され育てられていたのだ。

私が初めてはっぴいえんどの音に触れたのも、そのような時期に放送された、森永博志氏担当『サウンド・ストリート』でのはっぴいえんど特集によるものだった。初めて聴いた「はいからはくち」の大瀧詠一の異様なヴォーカルや松本隆の言葉の毒、そして鈴木茂の鋭く切れ込むギターには、わかりやすいロックの魅力が溢れていた。だが、より深く印象に刻まれたのは、細野晴臣作品「夏なんです」の、白い闇にも似た底知れない空虚の広がりだった。安全で微温的な「喫茶ロック」として消費される21世紀のはっぴいえんど像とは違う、アングラの香りがそこにはあった。

今、奇しくも同じようにはっぴいえんどの作品が市場から消えつつあるなかで、若い音楽ファンが初めてその音楽に接するのは、YouTubeやニコニコ動画の「作業用BGM」であるかもしれない。音域の限られた動画ファイルから流れるはっぴいえんどは、かつてモノラルの深夜ラジオから溢れ出した剣呑さを、ロック親父御用達の高音質紙ジャケCDから奪い返すことができるだろうか。
その音源がよりにもよって徳間ジャパンの、ある意味でレアなリミックスを施されたボックスセットのものだったとしても。

※この東宝レコードの倒産により入手不能となった四人囃子の名盤『一触即発』(74年)には、80年代末にCD復刻されるまで中古市場でプレミアが付いていた。

買い物メモ:書籍編(1〜3月 順不同)

といっても本は全然読んでなかったり。困ったもんだ。

米澤穂信『秋期限定栗きんとん事件』上・下巻(創元推理文庫)
小市民シリーズ第3作。瓜と狐の間には、たった3画にして超えられない壁が存在することを、狐のつもりが瓜でしかない読者に思い知らせる話。私は瓜の側に立つ(不本意ながら)。

堀江敏幸『おぱらばん』(新潮文庫)
折々のできごとが導く書物の記憶が、過去や異郷の記憶を連れてきて、今ここにいることの自明性が揺らぎ出すという作者のいつものアレ。その語りの胡散臭さも含めた完成度は本作が最も高いかも。
そんなことよりいつものアレといえばコレ。

あるいは事件以来たびたびすれ違っていた、黒い髪のロシア娘に年甲斐もなく恋したとでもいうのだろうか。(略)
彼女をください、あれは私の少女です、洋梨を盗んだ私の少女なんです……

毎度ながら、堀江先生のガチロリっぷりには頭が下がります!

あと自分で買った本じゃないけど、実家にあったので。

トム・ロブ・スミス『チャイルド44』上・下巻(新潮文庫)
スターリン体制下のソ連では存在しないはずのシリアル・キラーを追う捜査官の苦闘を描いて大変面白かった。とはいえ、これはやはりロシア人によって書かれるべき物語でなかったかとは思う。作者が20代イギリス人のテレビ脚本家ということを知れば「歴史の後出しジャンケン」というか「お笑い北朝鮮」的な色眼鏡を感じなくもない。本書がロシアで禁書扱いとなったのは、政治的脅威よりも「俺たちがスターリンを批判するのはいいが、お前らが笑いものにするのは許さん!」という愛国心の発露ではあるまいか。