バンバンバザール『+』(05年)
クラムボン『まちわび まちさび』(00年)
同『ドラマチック』(01年)
シンバルズ『ザッツ エンタテインメント』(00年)
スクービードゥー『ビューティフル デイズ』(04年)
フライングキッズ『ホームタウン』(95年)
Jungle Smile『林檎のためいき』(98年)
高野寛『相変わらずさ 〜Best Songs 1988-2004〜』(04年)
Char『CHARACTER』(96年)
坂本龍一『グルッポ・ムジカーレII』(93年)
以上、帰省先の函館で、文教堂のレンタル処分ワゴンから10枚千円にて購入。シングルCD20枚で500円というワゴンも隣に並んでいたのだが、何せ20枚単位でしか売ってくれないという強者ぶり。冨田ラボの手がけた鈴木亜美のCDとか欲しかったんだけど、そのためには無用な19枚のCDを購入しなければならず断念(レンタルのステッカーが貼ってあるので転売も不可)。敷居が低いのか高いのかわからない。
MAHALIA JACKSON/HE'S GOT THE WHOLE WORLD IN HIS HAND ('87) ※50年代のライヴ盤。250円
BILLY PRESTON/THE BEST ('82) 500円
JELLYFISH/BELLYBUTTON ('93) 500円
FAUST/RAVVIVANDO ('99) 500円
生田敬太郎『風の架け橋』(74年)500円
Lamp『木洩陽通りにて』(05年)500円
以上ブックオフにて購入。
吉川忠英『こころ』(74年)1470円
ピコ『abc』(72年)1470円
オレンジ・カウンティ・ブラザーズ『ソープ・クリーク・サルーン』(77年)1050円
青山陽一『AOYAMA YOICHI SINGS WITH THE BLUE MOUNTAINS』(90年)625円
PANICSMILE『E.F.Y.L.』(98年)714円
ミッキー・カーティス『耳』(72年)945円
ラリーパパ&カーネギーママ『LASY ALBUM』(03年)473円
TAJ MAHAL/MO' ROOTS('74) 756円
以上、吉祥寺ディスクユニオンにて2度にわたり購入。
日々のつぶやき
2009-03-22
買い物メモ:CD編(1〜3月 順不同)
買い物メモ:漫画編(1〜3月 順不同)
岩本ナオ『町でうわさの天狗の子』3巻(小学館)
渡辺航『弱虫ペダル』4、5巻(秋田書店)
同『まじもじるるも』3巻(講談社)
同『制服ぬいだら』6巻(講談社)
蒼樹うめ『ひだまりスケッチ』4巻(芳文社)
かずまこを『純水アドレッセンス』(一迅社)
吾妻ひでお『地を這う魚 ひでおの青春日記』(角川書店)
イシデ電『月光橋はつこい銀座』(幻冬舎)
入江亜季『群青学舎』4巻(エンターブレイン)
岩岡ヒサエ『土星マンション』3、4巻(小学館)
紺野キタ『つづきはまた明日』1巻(幻冬舎)
林家志弦『はやて×ブレード』9巻(集英社)
岩原裕二『学園創世猫天!』5巻(秋田書店)
kashmir『デイドリームネイション』2巻(メディアファクトリー)
小玉ユキ『坂道のアポロン』3巻(小学館)
よしながふみ『大奥』4巻(白泉社)
勝田文『プリーズ、ジーヴス』1巻(白泉社)
石黒正数『それでも町は廻っている』5巻(少年画報社)
桂明日香『ハニカム』2巻(アスキー・メディアワークス)
中村明日美子『曲がり角のボクら』(白泉社)
『ユリイカ』2009年3月号 特集*諸星大二郎(青土社)
あと、現在唯一の購読雑誌であるところの『週刊少年チャンピオン』!
2008-08-06
さびしい王様
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀 —宮崎駿のすべて〜「ポニョ」密着300日〜』を観た。心に引っ掛かって仕方がないのが、『カリオストロの城』から『風の谷のナウシカ』に至る数年の空白期を語った部分で、宮崎駿が漏らした一言だ。
「あのスタッフがいちばん良かった」
インタビュアーはスルーしたが、誰にともなく呟くように、この言葉を宮崎は2度繰り返したのだ。
「あのスタッフ」というのは、『未来少年コナン』で出会い、『カリオストロの城』に流れ込み、「死の翼アルバトロス」「さらば愛しきルパンよ」そして『名探偵ホームズ』をともに作ったテレコム・アニメーション・フィルムのスタッフのことだろう。近藤喜文や友永和秀、山本二三ら若い、しかし宮崎と10歳ほどしか違わない精鋭たちが集い、しかも宮崎を見守るように大塚康生が鎮座していた当時のテレコムは、宮崎に従うだけのイエスマンの集団ではなかった。「さらば愛しきルパンよ」製作時の『アニメージュ』座談会では、宮崎の特異な女性観や感覚の古さをも肴にし、『ホームズ』試写では「これだけ手間をかけたのだからもっと情感などほしい」と感想を述べたという。宮崎以外のスタッフがイメージボード(アイデアスケッチ)を提出したのは『ホームズ』だけではなかったか。そこには宮崎に迫ろうとする若い世代と、宮崎をフォローする先行世代の、理想的な「仲間たち」がいた。
「ここで企画を通さなかった者たちには怒りを感じますね」
宮崎は真顔で言い放つ。当時最強のスタッフは、しかし藤岡豊社長の「『リトルニモ』を海外との共同製作で世界公開する」という妄執にも似た夢に翻弄され、スタジオの旬を失ってしまった。その宮崎の無念は、当時同時公開された『ナウシカ』と、テレビアニメ『ホームズ』との歴然たる完成度の違いを見ても察して余りある。もし『ナウシカ』が、松本アニメや富野アニメのSFアニメ全盛期にテレコム製作で発表されていたら、その後の歴史はどうなっていただろうか(もっとも『ナウシカ』は、急揃えのスタッフによる画面の凹凸が魅力でもあるのだが)。
今の後継者のいないスタジオで、創作のコアをただ一人で支え続ける宮崎駿。スタッフの福利厚生に努め、子供に優しい笑顔を振りまく一方で、スタッフを罵倒し、すべての原画を修正し、あるいは完成原画を一目見て修正もせずゴミ箱に捨てる宮崎駿。民主的な仲間同士の繋がりを求めながら、結局は抑圧者として振る舞わざるを得ない、孤独な独裁者としての宮崎駿の顔が、隠蔽しようもなく立ち上がってくる。もしテレコムが成功していたら、せめて近藤喜文が生きていたら、今の宮崎の孤独はなかったのではないか。
その孤独感は、かつての同僚・奥山玲子の死に触れた部分で頂点に達する。「(夫の)小田部(羊一)さん、隠してたんだよ」とやり場のない憤りを漏らし、「俺の周りは櫛の歯が欠けたようだ」と、対等の「仲間」が去っていく悲しみを露にする。イエスマンに囲まれた寂しい王様が、夕焼けを見ながら「死んじゃったら夕焼けも見れないねえ」と呟く姿がもうやりきれない。番組の基調には「『ポニョ』に秘められた母への想い」「仕事にかける命がけの真剣勝負」という「いい話」に収束させようとする意図が窺える。にもかかわらず番組全体から漂うのは「巨匠の晩年の孤独」と、「どれほどの想いを込め、どれほどの努力を費やそうが、作品は出来上がったものが全て」という、「プロフェッショナルの残酷さ」だ。
「人を楽しませたい」という願いと、その成就が自分の存在意義と宮崎駿は語る。私は『崖の上のポニョ』を楽しんだが、その楽しみはこの番組によって、また複雑に苦味を増してしまった。
2008-08-04
ポーニョポーニョポニョ
『崖の上のポニョ』を観た。1度目は公開2日目にTジョイ大泉のレイトショー1200円で。2度目も同劇場で、映画の日に千円で。自転車で行ける距離にあるDLPシアター、しかもアクセスが微妙に悪いのでそれほど混まないだろうという目論見、案の定入りはどちらの回も7〜8割程度だった。
すでに多くの感想がネットで読めるが、その大部分は賛否どちらにせよ、竹熊健太郎氏と町山智浩氏による評価に概ね沿っているように思える。
竹熊評価 http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_fb6c.html
町山評価 http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080727
なので、私も両氏の論点を参照しつつ、まとまらない感想を並べてみたい。
町山氏が「子を持つ親として『崖の上のポニョ』で許せないこと」として挙げている突っ込みは(「子を持つ親として」という前提の気持ち悪さはともかく)いちいちもっともだ。ただし「自分たちの名前を息子に呼び捨てにさせている過剰に民主主義的な両親」というのはちょっと違うんじゃないか。いや、確かに違和感はバリバリなのだが、それは「過剰に民主主義的」だからではない。思うに、名前呼び捨ては宮崎駿なりの「ヤンキー性」の表現なのではないか。
これまでの宮崎アニメの家族像なら、父親は海洋学者で母親は大学の同級生、研究のために都会から海辺の町に転居、自然に囲まれた生活を満喫している、といった都会のインテリ層を両親に設定しているところだろう。ところが宗介の母親のリサの場合は作中の描写から想像するに、地元のヤンキー商業高校出身で卒業後に介護士の資格を取得、同級生とできちゃった結婚で宗介を生む、というあたりの背景が思い浮かぶ。車で乱暴にワインディングロードを攻め、息子に気を取られて脇見運転し、買い物は郊外のショッピングモール、子供の食事はインスタント、幼い息子の前で夫と争いヤケ酒を喰らい不貞寝する。良妻賢母ではない、母親である前に不完全な女であるリサ。こういう人物像は、郊外や地方のシネコンに車でやって来る若い家族連れの層に、かなり重なるのではないか。別に宮崎駿にそういう山っ気があったとは思わないが、左翼インテリが発想するリベラルな家族像というよりは、ファスト風土に住まうヤンママ一家と見たほうがしっくり来る。少なくともそういう現代性を映画に持ち込もうとしたことは確かだろう。そのリアリティが映画の内容と整合するかはさておき。
一方で町山氏のほかの指摘は非常に妥当なのだが、魚に水道水は禁物だの、雨天の高速運転はハイドロプレーニング現象がどうのといった常識は、宮崎駿だってさすがに知らないはずはない。知っていてそれをあえて無視するのは(映像的な快感を優先したこともあろうが)『ポニョ』をリアル志向のアニメではなく「漫画映画」として作るという意志の表れだろう。しかし、最大の問題はここにある。なぜなら『ポニョ』は漫画映画ではないからだ。
『ラピュタ』や『トトロ』や『紅の豚』が、『長靴をはいた猫』や『パンダコパンダ』や『どうぶつ宝島』にはなれなかった時点で、宮崎はもはや漫画映画を作れないことを自覚していたはずだ。背景画の線を歪ませパステル調に仕立て、自然のエフェクトを手描きの(色トレスではない)実線で描いてみたところで、キャラクターの影を省いたところで、宮崎アニメの表現はそれでも「リアル」過ぎるのだ。そもそも、車種まで特定できそうな軽自動車の助手席にチャイルドシートが据えられているような世界で「漫画映画」を実現するのは不可能だ。にもかかわらず『ポニョ』でもう一度漫画映画を夢見たことが、宮崎の老いだと言っては残酷だろうか。ちなみに一枚絵の書き込みの量を増やすことと、線を簡略化して膨大な枚数を費やすことは、垂直と水平の方向性が異なるだけで「老境のマニエリスム」に違いはないだろう。『コナン』や『ルパン』の3コマ作画の動きの切れが懐かしい。
この「漫画映画の力」への過信は竹熊氏の言う「『この世』と『あの世』の境界が最初から最後まで判然としない」ことの原因だったりもする。特に後半以後にそれは顕著になる。
ポニョ来襲によって水没した町を覆う海の色は、それまでの濃い青やどす黒い津波の色ではない、蛍光グリーンの不思議な色になる。『どうぶつ宝島』で生まれ、『雨降りサーカス』で再登場した、あの懐かしいバスクリンの海だ。溺れても誰も死なない「漫画映画の海」は、しかし直前まで荒れ狂っていた群青の海とは明らかに違う。明らかにリアリティの水準が異なる表現が唐突に接続されることによって、「洪水だけど誰も死んでません」という漫画映画の規範を示すはずの明るい海の色は、それまでの「映画内リアル」に対する「異界(あの世)の標識」として機能してしまう。ドラマ性とは全く関係のない若夫婦との会話や、船で避難する町の人々の暢気さ、子供の夢を具現化したような玩具の船、遊泳する古代魚などなどの描写が「漫画映画のおおらかさ」ではなく、死後の世界の表象、醒めない悪夢のように見えてしまうのは、あの非現実の海の色によるところが大きいのではないか。
ポニョの波乗りを最大のスペクタクルにして、以後全くクライマックスのない展開も、「いつ終わるんだこれ」という観客の意識とも相俟って、また醒めない夢のような不思議な感触に繋がっていく。ただし、これが竹熊氏の言うような、子供映画のふりをした作家の映画なのかといったら、そうではないだろう。
シナリオなしにコンテから筆を起こし、出来上がったところから作画を開始、全体像は(宮崎駿を含め)誰も把握できないまま製作が進み、事実上駄目出しする時間がないまま完成してしまう。製作側は宮崎駿を信じてゴーサインを出すしかない。このジブリ流製作システムでは、スタッフも宮崎のイメージボードの段階からつき合い、コンテを小出しに見せられ、レクチャーを聴き打ち合わせをし……という形で「宮崎駿の思考の流れと自らをシンクロさせる」ことが作業の上で第一になるだろう。つまり、スタッフ全員が宮崎の脳内に住んでいるようなものだから、外部から突っ込みを入れられるはずがない。こういう宮崎アニメの作り方のでたらめさが、たまたま夢の論理のでたらめさと合致したのが近年の宮崎アニメであり、とりわけ『ポニョ』の場合は「アニメ映画」と「漫画映画」のリアリティ水準が混在しているために、シュールさがより激しく強調される結果になったのではないだろうか。
では通常の映画ならどのような見せ場が考えられるだろうか。ここで恥知らずにも2次創作的に「ぼくのかんがえたポニョ後半部」を書いてみよう。
リサが老人ホームへ去った翌朝、船出するポニョと宗介。
若夫婦とのやりとりは省略し、手を振ってすれ違う程度に止める。
避難民の描写も省略(後述)。
暢気な航海の後、発見したリサカー。しかしリサは不在。泣く宗介。
ポニョ、眠い眼を見開き、「宗介、リサんとこ行こう!」と言い放つ。
インスマス面(半魚人モード)で念じるポニョ。
丘の貯水曹がひび割れ、巨大な水が山肌を落ちてくる。水の塊は魚の形になり、ポニョが宗介を魚の上に乗せる。ポニョは魚と一体化。
ポニョ「宗介、走って!」
水の魚にしがみついていた宗介、おっかなびっくり立ち上がり、走り出す。水色の魚が、群青の海の上を泳ぐ。ポニョの妹たちも巨大な水の魚となり、後を追う。町から水が見る見る引いていく。それを高台から息を飲み見守る避難民たち(ここで登場。無事であることを示すため)。
クミコ「あれ、宗ちゃんだ!」と指を差す先には、水色の魚に率いられた巨大波の魚群が沖に向かう姿。
魚の中で泳ぐポニョ、しかし眠たげに眼を閉じようとする。途端に勢いを失う魚。水が張力を失い、沈みかける宗介。
宗介「ポニョ!」必死に走る宗介。眼を開くポニョ。形と勢いを取り戻す魚。
ポニョ「見つけた!」
海中へと潜っていくポニョと宗介。
フジモトのサンゴ塔の中では、好き勝手なことを言う年寄りとリサを相手にフジモトが困り果てている(後半、唐突に「もののわかった母」になるリサに違和感があるため。年寄りたちは皆立ち上がっているが、そのことを自覚していない)。そこに登場するグランマンマーレ。その威容に思わず打たれ静まる一同。
深海へと向かうポニョと宗介。気泡に包まれながら、疲れつつも走りをやめない宗介。しかしポニョが力を失い、人型から半魚人へ、そして魚に戻ってしまう。水色の魚は崩れて周りの濃い色の海に溶けていく。
「ポニョー!」叫ぶ宗介。だが宗介の周りの気泡も砕け、水圧に潰されようとするそのとき。グランマンマーレの光り輝く巨大な手がポニョと宗介を包む。意識を失う宗介。
宗介目覚める。心配そうに見守るリサの顔、老人たち。
宗介を抱きしめるリサ。宗介「ポニョは?」
水球の中で死んだように動かないポニョ魚。号泣する宗介。
フジモト「ポニョの魔法を使い果たさせるには、こうするしかなかった。許してくれ」フジモトの方法で世界は救われたが、ポニョは失われた。
グランマンマーレ「今度は私のやり方を試す番ね」
グランマンマーレ「宗介さん、ポニョは死んではいません。眠っているだけ。ただし、このままずっとお魚のまんまなの。それでもあなたは、ずーっと、ポニョと一緒にいてくれますか?」
宗介「うん、ぼくポニョ大好き! お魚だって、ポニョはポニョだもの!」
即答する宗介。眼をみはるフジモト。深く微笑するリサと老人たち。
グランマンマーレ「地上に戻ったらキスしてあげなさい。ポニョは目覚めるわ」
水の引いた港で海を見つめる町民たち。やがて海中から現れるウバザメ号。出てくるのはポニョの眠る水球を抱えた宗介、リサ、老人たち(全員歩いている)、そしてフジモト。ポニョを宗介に託し、別れを告げるフジモト。
町民が見守る中でポニョにキスをする宗介。目覚め、見る見るうちに大きくなるポニョ、どよめく群衆、泣き笑いで人間になったポニョを抱きしめる宗介。
ポニョ「宗介、だーいすき!」
クミコ「ちょっとあんた、お魚のくせに、なまいきよ!」
ポニョ「お魚じゃないもん、ポニョだもん!」
ポーニョポーニョポニョ(以下略)
自分で書いておいて何だが、この展開の問題は、
1.ポニョの行動が自己犠牲に見える。
2.宗介の行動が5歳児の枠を超える。
3.クライマックスが中盤部分のスペクタクルの縮小再現になる。
4.水の引く描写を入れると、沖に浚われる船や車や建造物など、具体的な被害を描かないわけにいかなくなる(犠牲者をも暗示してしまう)。
5.グランマンマーレが、宗介を試すために嘘をつくことになる。
そもそもこういうお約束の展開と観客の満足のために、登場人物に悲惨をもたらし試練を与えることを、宮崎監督はもはや良しとしないだろう。だからこそ5歳児に課せられる試練は「怖いトンネルに子供だけで入る」ことと「元お魚の女の子を愛する」ことにとどめられるのだ。碇シンジを最後までエヴァ初号機に乗せようとしなかった庵野秀明のメンタリティにも通じるような気がする、と言ったら宮崎駿は憤慨するだろうか。
それに、実際こういう映画だったらお前は喜ぶのかと言われれば、そうじゃないよなあと思う。宮崎駿はもう一仕事も二仕事も成し遂げた人で、十二分に楽しませてもらったのだから、その老境にリアルタイムで付き合えるのもファンの幸運というべきだ。まして、こんなアナーキーな映画を結果的に観せてくれたのだから文句をいう筋合いはない(それにしても宮崎アニメがアウトサイダーアート扱いされる21世紀を迎えようとは思わなんだ)。子供連れもそれなりに親子で喜んでたよ。何と言っても、途中ダレようが最後にあの歌ですべてがチャラになってしまう恐ろしさ。ポーニョポーニョポニョ(以下略)
[補遺]
・劇映画としてのドラマ性よりも、奔放なイメージの連続を尊ぶ作りは、東映動画というより虫プロの作風に近い。海の住人が妙に手塚的なのもその印象を強める。
・諸星大二郎どんだけ好きなんだ、という。ていうか諸星の影響が、水準の異なる表現を無理に持ち込ませたことで宮崎の「漫画映画」を破綻させたのではないかと思わないでもない。
・ポニョ来襲のシーンが宮崎原画だとしたら恐ろしすぎる。
・音楽自重。うるさい。
・リサの「どんなに不思議なことが起こってても、今は落ち着くの、いい?」という台詞、あそこでリサが「不思議」を認識しているのは、人面魚を「金魚」として平然と受け入れる世界と整合性を欠くことになる。こういうリアリティ水準の混乱が『ポニョ』では到るところに見られる。漫画映画なら漫画映画で、作品内リアリティの基準は統一されるべきではないか。その意味でも、相互批評としてのシナリオと演出の緊張関係はやはり必要なのだ。
・『ポニョ』は、リアル世界に異界の住人が侵入することで起こる軋轢を描いた『河童のクゥと夏休み』や、異界の住人がいる日常をメタに意識化した『のらみみ』と比べても面白いかもしれないが、どっちも観てないんだよな。
・ゴミと一緒に浚われるポニョ。地面に投げ出されるポニョ。ガラス瓶ごと壊されそうなポニョ。今にも(死の)眠りに落ちそうなポニョ。ポニョの生命の脆さは映画の中で繰り返し示される。これは「命というものは儚いものだ」という以上のことは実は表現していないのではないか。つまり「だから命を大切に」という教訓はそこに含まれていない。5歳の宗介がポニョを死なせなかったのは偶然でしかない。これからも宗介(とポニョ)は、無数の命を奪いながら大きくなっていくだろう。そのことを宮崎駿は「これでいいのだ」とバカボンのパパのように肯定するような気がする。
2008-07-30
YMO楽曲大賞78/07
YMO楽曲大賞78/07参加のためのエントリーです。
http://www.k2.dion.ne.jp/~prse/ymoma/
●楽曲部門
1.体操 - TAISO(3点)
坂本の持ち込んだ現代音楽要素と、細野・高橋のリズム体のファンクネスが「反復」を共通項に合体した、3人の共同作業としてのYMOの完成形。シリアスを冗談ではぐらかす80年代サブカル的なセンスに痺れた。
2.シムーン - SIMOON(2.5点)
架空のハリウッド・ノスタルジーをヴァーチャルに再構成した、細野晴臣のソロ活動の延長上にある傑作。以後この路線がYMOでは廃れたという意味でも特別な楽曲。細野とキッド・クレオールの相似性を強く感じさせる。
3.マルティプライズ - MULTIPLIES(2点)
高橋幸宏のドラミングで一番好きなのが、こうしたスカ〜レゲエ的なリズム解釈。今聴くとスペシャルズまんまだが、そのネタ消費の速度感も魅力。イントロの引用だけで作曲者印税をもぎ取ったバーンスタインの剛腕にも唸る。
4.邂逅 - KAI-KOH(1.5点)
このあたりの楽曲の魅力は、実はHMO(初音ミクオーケストラ)で再認識したりした。坂本龍一の詞・曲・ヴォーカルの全てがナイーヴな魅力を放つ。
5.リンボー - LIMBO(1点)
YMOの歴史はミュンヘン・ディスコに始まりブラック・コンテンポラリーで終わる。結局黒人音楽好きなプレイヤー集団としての魅力が露になった1曲。細野晴臣が生ベースを弾く曲に外れなし。
●ライヴ楽曲部門
1.音楽の計画 - MUSIC PLANS [1981/12/22-24 新宿コマ劇場](3点)
強力なリズム体に支えられてアグレッシヴに暴れまくる坂本の存在感。ここがYMOのピークだ。
2.東風 - TONG POO [1979/10/16 The Venue (London)](2.5点)
『パブリック・プレッシャー』のバージョンから。渡辺香津美のギターがカットされたおかげで細野晴臣の動きまくるベースラインを堪能できる。
3.ジ・エンド・オブ・エイジア - THE END OF ASIA [1980/12/21 日本武道館](2点)
ノイジーなシンセドラム、大村憲司による鋭角的なギターのカッティングが刺激的。東風もそうだがこのライヴではリズムのレゲエ的な解釈が印象的だった。
4.ライオット・イン・ラゴス - RIOT IN LAGOS [1980/12/21 日本武道館](1.5点)
2度目の世界ツアーでYMOのオルタナ化を牽引したのは、この坂本ソロ曲のインパクトによるものが大きかったのではなかろうか。映像では、直立不動でシンセベースのシーケンスを弾く細野のストイックな存在感が物凄い。
5.中国女 - LA FEMME CHINOISE [1983/12/12-13 日本武道館](1点)
シンセの音色もメロディアスなベースも、高橋幸宏のヴォーカルも全てがセンチメンタルで、ニューロマンティックなYMOもまた良し。これで終わりなんだ、という感慨が深い。
番外.
ワイルド・アンビションズ - WILD AMBITIONS [1983/07/25 フジテレビ『夜のヒットスタジオ』第766回]
ノミネートのリストにないので外したが、これを3位にしたかった。全期を通じて唯一の細野・坂本2人による共作曲。テープ録音だろうトラックに、細野のウッドベース、坂本のピアノ、高橋のドラムが生で重ねられる。演奏のテンション、タキシード姿の佇まい、「Let It Be」の引用など、YMOの「終わり」を暗示させる。
●アルバム部門
1.テクノデリック - TECHNODELIC(3点)
今でも一番聴き返すアルバムだから。サンプリングの導入によるインダストリアルな感触、不穏な人間関係の緊張感、現代音楽とファンクとケチャがせめぎ合う反復の魔力、ベーシストとしての細野晴臣のリミッター解除など、全てが最高傑作に貢献している。
2.増殖 - X∞MULTIPLIES(2点)
当時、流行ものとしてのYMOを避けていた私が初めて引っ掛かったのがこのアルバム。ニューウェーヴとスカの疾走感、人を馬鹿にするにも程があるスネークマンショーのギャグ、Tighten Upの超絶カバーなど聴き所多し。
3.サーヴィス - SERVICE(1点)
もともとジョルジオ・モロダーのミュンヘン・ディスコにフュージョンのセッションという、ニューウェーヴとは程遠い出自を持つYMOの、ある意味原点回帰ともいうべきブラコン・アルバムにして最終作。SETのギャグは箸休め程度だが曲は粒揃い。坂本曲「Perspective」を聴くと、細野曲「ノルマンディア」の盗作疑惑の際の坂本の言いざまを思い出し今だに腹立たしい(笑)。
●推しメン部門
細野晴臣
そりゃもう。