台所の三角コーナーにささやかな緑が息づいている。数日前に捨てた大根の切れ端から芽吹いた小さな若葉が、生ゴミ仲間の屍から水分と養分を吸い上げて、今や広げた枝の長いものは20cmに達し、中心部には花の蕾が出来ている。日光のほぼ当たらない台所でよくぞここまで生き延びた。こうなると立派な命、生ゴミとして捨ててしまうのも躊躇される。とりあえず水を入れた空き缶に移し、日当たりの良い窓際に置いた。さてこれからどうしよう。園芸店でプランターと土を買ってくるか。それとも大家の庭の片隅にこっそり植えてしまおうか。せっかくだから花の開くところを見たいものだ。
昼食を中途半端な時間に食べたので夕食は食べ損ねた。苺と砂糖を入れたプレーンヨーグルトで夜食とする。
日々のつぶやき
2008-03-17
武蔵野大根
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5 件のコメント:
なんだか妙に花登匡を読みたくなったのでした。でも今、本ないんだよなあ。読めないんだよ、意外なことに。
実は純文学の人より大衆文学の人の方が後年になって読めないものいっぱいあるね。
って、大根の花でなんだか読みたくなったぞ、と。
『だいこんの花』は向田邦子らしいですぜ。花登筺のドラマは大好きだったなあ。今見直したいのは『ぬかるみの女』(未亡人がマダムとして大成する一代記)。源氏鶏太とか今読むと意外と面白かったり。
おー、向田さんかあ。
ところでこばこって字、よく出たね。
字、でないからたけかんむり抜きで書いたのだが(苦笑)。
ぬかるみの女、うん、ワンパターンっちゃあワンパターンなんだが……
ぬかるみは誰が主演だったんだろう。
細腕繁盛記は新珠道代(字、あってるか?)だったけれど。
あと、西郷輝彦だったかなんかが主演の百貨店ものもあったなあ……(西郷さんじゃないかも。うろおぼえ。なんたってカモだってちびちゃんの頃だったからなあ)
源氏鶏太はおもしろい。
花登さんはある意味、紙芝居的だけどおもしろい。
「筺」は今はなきEGBRIDGEでは「はこ」の変換候補にあるのです。ぬかるみは花登夫人の星由里子だったっけ。西郷輝彦は『どてらい奴』。紙芝居的なのは、きっと先の構想を決めずに視聴者の反応を見ながら書いてると思うんですね。そういうタフネスは今の大衆作家にはないんじゃないかと。
あー。たしかにそれは、考えると面白いメディア考察かもね。
まず新聞小説があるでしょう、読み手との距離が近しい、タイム感というか、タームが短いというもの。たとえばある意味、中里介山の「大菩薩峠」とかその最たるものではないかと思っているのだけれども(しかし、あれはあまりの長期にわたるうちに、作家の自我が勝るんだな)、そういう意味ではテレビとの即応性の作家という非常に現代的なスタンスなんだね。
これはもう少し視野にいれて考えるとそうとう面白い視点かもなあ。
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